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④光の絵

 「写真は光で描く絵だ」「レンズが絵筆で、光は絵の具」
 これは、木原和人が当時写真雑誌で毎月誌上フォトセミナーを連載していて、その日、最初のページに大きな文字で派手に掲げた、彼の爽やかなメッセージである。

 そして、その記事を見た私と相棒は、それはもう激しい衝撃に襲われたのだった。私も「これは・・」と言った後、思わず絶句したのを今も鮮明に覚えている。

「おいっ、今日出た木原の写真と記事、見たか」
「ああ、見たよ。ショックだな・・」

 ジュニア向けのこのカメラ雑誌では、創刊当時から「ネイチャーフォト」というジャンルが立ち上げられていて、それが読者に人気を博し、木原和人は、その講師に起用されていた。いわゆる「キレイキレイ写真」の第一人者が彼なのである。
 比較的安価なマクロレンズの普及もあって、身近な花などの自然が被写体なので、初心者が入り易く、ジュニアや女性のシニアの大勢が彼のファンになっていた。

 それは、カメラの絞り値を開放にして、花や昆虫にピントを合わせると、手前や背景が大きくボケて、デフォルメのように写るというマクロレンズの特性を生かしたものであり、誰もが直ぐにその綺麗な自然写真を撮ることができる。
 彼の写真を初めて見て、「綺麗だなあ」と思い、マクロレンズを購入し、公園や近くの野山に出かければ、その日に大量の木原調の自然写真が出来上がる。もちろんピント合わせや構図取りの難しさはあり、絵心的なセンスも必要だが、そこそこの作品が容易に出来上がる。

 そして、私と相棒もその例外ではなく、彼の写真に初めて触れたのはその雑誌に違いない。しかし、私たちは、その前から既にマクロレンズは持っていて、その特徴は熟知していた。
 私たちが自然写真の魅力に取り憑かれたキッカケは、じつは木原和人の写真ではなく、彼がカメラ雑誌に登場する少し前に出版された、或る写真集であった。
 それは「光の五線譜」という、百ページほどの軽い装丁の写真集で、身近な花や植物、昆虫の接写や、野鳥を、生態写真ではない綺麗な写真で四季に沿って纏め上げたものである。串田孫一という詩人の詩文がそれぞれの写真に合わせて載せてあり、フォトエッセイの形になっている。
 木原和人のようなボケ味を強調した写真は少ないが、それでも接写になると自ずとボケ味は出るもので、自然の美しさと同時に、その写真の新鮮な視線と世界観に私は心を奪われたのであった。

 私は、学生時代、相棒に出会う前にこの写真集に会っていて、マクロレンズなるものの存在もそこで知り、自然写真を撮るようになったのである。それには、全ての作品の撮影データ(カメラ・レンズ・絞り値・シャッター速度)が丁寧に記されていて、大いに参考になった。撮影者も紹介されていて、私が興味を持ったのは、栗林慧という写真家であった。彼の撮った昆虫や植物の接写写真が事のほか綺麗で、小さな自然のフォルムを精密に捉えていて概ね「絵」になっていた。
 私は、それ以前は前田真三の風景写真に心酔していて、それが自然写真を撮る契機になったのであるが、その作品集の中には花をアップで捕えたものもあり、考えてみれば、そもそも、風景写真自体が自然を捕えたものなので、それは、花や、樹木や、植物が被写体なのである。
 しかし、風景写真となると、それなりの場所へ出かけないと、どうしても思う写真を撮ることが出来ず、経済的に限界があることからも、私は、身近な自然を捕えたこの写真集の世界に心を魅かれて行くのであった。そして、その自然写真に秘められた可能性について、大いなる夢を描くのだった。
 私が最初に手にしたその写真集は「光の五線譜・2」だったので、すぐさま「1」を取り寄せたことは言うまでもい。
 それは「2」と全く同じコンセプトで、私は更にその世界にのめり込むことになる。その世界というのは、じつは既に「五線譜調」という形容で写真界には認知されていたようだが、とにかく私はその小さな世界の虜になって、暇さえあれば野へ山へと出掛けるようになった。
  当時、私の鞄の中には、何時も常にその写真集が入っていて、たとえ見なくても肌身離さず、まるでそれを何かの御守りにするかのように持ち歩いていたものだ。そのうち表紙や角が磨り減ってそれはボロボロになった。そして、相棒がそれを見て、いつしか彼も興味を持ち始め、私への追随が始まるのであった。

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「なんだよその服」
「え?・・どうかした?・・なんかへんか?」

 近くの公園で基本をレクチャーした後、相棒が初めて私の撮影に同行した時の事、彼は私が何時も着ているジャケットを真似て近くの商店街でそれに似たものを買ってやる気満々でやって来たのだ。

「なんか医者か保健所の職員みたいだな。白すぎてなんか眩しいし」
「そうかなあ・・」
「それだけの問題でもない。デザイン的にどうなんだそれ」
「おかしいかな?バッチリだと思ったんだけどなあ・・」
「いったいどこで買ったんだよ」
「家の近くの商店街。お袋の馴染みの店なんだよ。買ってもらったんだから仕方ない」
「お前は何でもお袋なんだな。そういえば、カメラとレンズをを包んでる布袋も作ってもらったんだっけな。紫色のビロードの。あれもなんかどうかと思うぞ。それは確かに貴重品だけど・・。親心がこもりすぎだよ」

 その服には、目立つポケットがあちこちに多数付いていて確かに機能のなようだが、それにしてもデザインがどうかしている。胸のところに英語のロゴが刺繍で施されていて、なんと「SimpleLife」とある。刺繍が荒いし糸の色がおかしな緑色をしている。バッタモンも甚だしい。それにしても白い。白すぎる。
  私の着ているジャケットは、カメラマン用のそれではなく、いわゆるサファリジャケットの一種で、「SimpleLife」という当時人気のレナウンのブランドであった。ちょっとない、モスグリーンが少し混じったような薄灰色の白で、形は飾り気がな、軽くて文字通りシンプルなものである。普段から私はそれが大変気に入っていて、大学時代から春や秋にはそれを羽織って何処へでも出掛けていたものだ。
 そういえば、当初から、彼は時々ちょっとおかしな服装を時々してきて、よく周りに「なんだそれ」と言われていたものだ。その出元が同じ商店街の洋品店であったのは言うまでもなく、「LACOSTE」のワニのロゴなどもそれは可笑しなものだった。
 
「バッチリだと思ったんだけどなー」
「ぜんぜんバッチリじゃないよ。よくそんなの有ったもんだな」
「まあ、そう言うな。これでいいよ。安かったからいいんだよ」
「お前も本物志向じゃなかったのかよ」
「俺は日本のレッテル主義に抵抗してるのさ」
「・・・?」

 それにしても、その白は本当に眩しくて、私がスミレの花を接写をしていると、彼が横に密着して来るので、「露出がおかしくなるから近寄るな」と言うほどだった。
 見よう見まねとは、正にこの事で、行く所行く所にピッタリと着いて来て、私が撮っている花を横から同じように狙って撮るので、「他にも咲いてるだろ」と言うと、「それが一番いいんだよ」と言って譲らない頑固な一面もあるのであった。
 そして、慣れてくると、私の先を越して、一番いい個体を目敏く見つけるという、チャッカリとした一面も見せるのであった。
 
「とにかく、少し離れてくれないか。俺はこっちの方へ行くから、お前はあっちの方の道へ行ってみろよ。遊歩道が幾つもあるけどみんな繋がってるから。時間を決めてまた此処で落ち合おう」
「迷子になったらどうすんだよ。お前は何度も来てるから心配ないんだろうけど・・」
「分かったよ。だけどあんまり近付くなよ。調子くるうからさ」
「分かった分かった」

 そう言いながら、直ぐに近付いて来て、直ぐ横の違う固体を、腹這いになったり、同じ格好をして撮影をする彼なのだった。構図を決めたファインダーを見てくれと言うので覗いてみると、そこには確かに私と違った個性があるので、それを尊重するようにして、技術的な務アドバイスに留めるよう心掛けていた。

「俺にはない軽さが有っていいんじゃないかな。とにかく絵になるようにしような」
「そうだ。軽さは俺の真骨頂だから、それで行く。水平線が傾いてる浅井慎平の写真も好きだからな俺は」
「木原和人じゃなかったのかよ」
「俺のイメージはそれよりも進んでるから」
「それは頼もしい。その意気込みは奨励するよ」
「このやろう、上から言うな」
「いやいや、このとおり、横から言ってるんだけどな」

 プロの自然写真家を同じように夢見た二人にとって、デビュー競争のスタートを切る少し前、大学を卒業したばかり、就職浪人の年、東海のミニ尾瀬といわれる葦毛湿原というフィールドでの、四月の或る日。
 それは夢の頂の山の麓にある野原での、長閑な春の一日の一コマであった。 

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「おいっ、今日出た木原の写真と記事、見たか」
「ああ、見たよ。ショックだな・・」

これには続く言葉があって、そのショックが、どの様なものなのかということである。

「木原のやつめ、やりやがったな」
「ああ、そういうことだな。ちょっと許せんかもな・・」
「あの野郎、とんでもないインチキ野郎だな」

 その日、彼は、写真誌の木原和人のコーナーの大きな見出しの「写真は光で描く絵だ」「レンズが・・」という文言を見て驚いて、直ぐに私に電話をしてきたのだった。

「あれは、この前、木原に会ったとき、お前が木原に話した言葉そのまんまだよな」
「一字一句そのまんまだ。説明してる事もそのまんまだな」
「それにしても、カッコよく大きく出したもんだよ、なあ」

 そのコーナーは、毎月彼が連載している誌上フォトセミナーで、本人の新作を発表することも兼ねており、それを見るのが楽しみの二人だったが、この時ばかりは驚いたのだった。カメラをカッコよく構えて何かを狙うポートレート写真の上に、大きく記されるその決め文句。「光の魔術師・木原和人」という言葉も加わって、なんともかっこいい。
 彼は、そのとき三十代で、新進気鋭の自然写真家として、メーカーと雑誌社がタイアップして、大いに売り出していた。アマチュアの間でマクロ写真の「ネイチャーフォト」が流行し、彼がその立役者になってノリノリの状態だった。カメラ雑誌社には多数のファンレターが来たりしてその売上に大いに貢献していたようだ。

 特別に格好をつけたり気取ったりしているわけではいが、元々容姿端麗な彼は、ランドクルーザーを乗り回して自然の中を飛び回る姿が颯爽としていて、憧れる中年女性も少なくなかったようだ。「木原さんの写真を見て私もネイチャーフォトを始めました」「撮影会で見た貴方がカッコよくてファンになりました」などという投稿文が掲載されたりもしていて、カメラファンの中で、世に「ネイチャーフォト」ブームを確かに巻き起こしていた。各カメラ誌の口絵にもよく載った。彼は、出始めの頃に比べると、次第に垢抜けてきて、まるで芸能人のような雰囲気さえ醸し出していた。

 私たちは、そんな彼の方向性に疑問を感じるようになり、その頃には次第に彼の作品に飽きて来て、毎月発表される新作の出来に不満を呈するようになっていた。実際、アマチュアが撮る同様の写真にも、彼を凌駕する作品が数多く見られるようになっていて、「追いつけ追い越せ」と日々切磋琢磨の私たちも、当然の如くそうなっているのであった。
 私は最初から彼の作品や活動には不満足だったので、期待をしていないぶん相棒ほどの意識はなかったのだが、彼は、目標を木原和人にターゲットを絞っていて「あんな写真を撮りたい」「あんな活躍をしたい」という至極単純明快な動機があったので、その一挙手一動足に何時も注目しているのであった。

 私が木原和人と会って、その話をしたのは本当で、それは、彼が名古屋の或るギャラリーで持ち回りの写真展を開いた時に、来場していた本人に「ファンです」と言って近付いて、話をさせてもらった時のことである。
 出たばかりの写真集「光と風の季節」を購入していて、それにサインをしてもらったのであった。日付が記されていて、今ではいい記念になっている。その時の会話が、それを見るたびに蘇えってくる。1984年10月15日のことである。
 彼は、時間を惜しまず熱心に話を聞いてくれて、私の語る写真論に頷いてくれて、「君たちはプロになりたいのかな?」と訊ねられたものだ。「君たち」・・つまり、その時も私の横には相棒が居て、木原和人の前には二人が並んでいるのであった。
 しかし、私は、彼については、写真よりもその人物像に興味があって、特別の質問をした。

「木原さんは、写真家協会に入らなかったり、NPSを飛び出したりしてますが、僕はそんな木原さんに凄く興味を引かれるんです。なんか尊敬しちゃうんですが、おかしいですかね・・」
 そう言うと、彼のにこやかだった表情が真顔に変わった
「彼らは甘いんだよ。やってることがいちいちすべて。馬が合わないの。だから俺には敵が多いのも事実だね。だから、あんまり良いお手本でもないと思うよ」
 一匹狼でアウトローのイメージを何処か彼に抱いていた私は、驚いて嬉しくなった。
「だけど、こうやって写真集が出たり、写真展を開いたり。雑誌で活躍してるじゃないですか」
「俺には敵が多いけど、そりゃあ、気の合う味方も居るっていうことさ。君たちがもし将来プロになったら、その時は力になるから頼りにしてくれ。こう見えても、この世界じゃ、俺にも政治力ってものが少しはあるんだから。・・東京に来た時は知らせてくれよ」
 私は更に嬉しくなってその話を突っ込んだ。
「そういえば、木原さんの名刺には『自然写真家』ってあるだけで、写真家協会には本当に入ってないんですか?」
「ああ、本当さ。べつに写真家協会なんて入らなくていいさ。どうせ皆それを名刺の肩書にしてハクを付けたいだけなんだから」

 彼の言葉には飾り気がなく、表情の真剣さからも、それが嘘偽りではないことが窺えた。この人は本当に純粋で正直な人なんだと思い「本物」の片鱗を見るようだった。
 すると、思わぬ話の展開に、黙って聞いていた相棒が唐突に実直な質問を投げかけた。

「僕は木原さんの写真に憧れて木原さんのようなプロになりたいんです。どうすればプロになれるんでしょうかっ?」

 それは私も訊きたいことであったので、大いに助かった。
 そして真正直な質問には真正直な答えが返ってきた。

「先ずはとにかくいい写真を撮ることだよ。いい写真を撮ってれば、必ず誰かの目に止まって、認められるものだから」
「未だ未だですが、もう少しというところまで来てるような気もします。コンテストに出しまくるということですかね」
「アマチュアコンテストはプロの登竜門じゃあないから、腕だめしくらいにしておこう。遠回りだし。写真展を開くんだよ。東京の一流の所で。メーカーとかのがいいな。とにかく写真さえよければプロになれるよ。それを信じて頑張ることだな」
「ハイッ、頑張りますッ!」
 私を差し置き相棒が背筋を伸ばして大きな声で返事した。そして私も負けていなかった。
「僕は写真に完成度を求めて頑張ってるんです。オリジナリティの追及なんです。木原さんはどうなんですか?」
「もちろん僕もそれは何時も求めているさ。それを求めずに何が写真家だ。みんな甘いんだってば」

 実はその二年前、私は名古屋のハイドカラー・ギャラリーという所で初めての自然写真の個展を開催していて、その時も彼が写真展と共に同じ所に来場していて、その案内状を彼に会って手渡したのだった。そしてその時に買って持っていた「接写のフルコース」という彼の新書にサインをしてもらっていた。1982年5月1日のことである。その時、そこで彼の公演があったのだが、彼はここの常連アマチュア達からは未だ認知されていなかったようで、質問タイムに大いにからかわれたりしていたことを私は覚えているが、名古屋のハイアマチュアは気位が高いことで有名のようだ。しかし、その二年後に木原は随分出世して、そのアマチュア達はすっかり静かになっていて、権威に弱い名古屋人気質に閉口する私であった。
 その時も横には相棒が居て、一緒にサインしてもらったりして喜んでいた。その際には、二人とも会っただけで胸が一杯でサイン会の時に「頑張ってください」というのが精一杯だった。そして、ギャラリーの玄関先に横付けしてある彼の愛車「ランドクルーザー」を見て大いに憧れたものである。後ろの荷台にはカメラ機材がぎっしりと詰っており、白いマーガレットの花の束が積んであった。信州の高原で摘んだものだろう。緑色のボディにくっきりと印字された「自然写真家・木原和人」という白いロゴが眩しかった。

 その時の私の写真展の題名は「光のくにの詩」で、花と昆虫の世界を綺麗な別世界として描いたものだった。その表の写真は、いみじくも木原和人の写真に似ていて、緑と青空をぼかした背景に、薊の赤い花の上にジョウカイボンというカミキリムシがこちらを向いて止まっている写真であった。しかし彼はやはり来ることは遂になかった。当然のことである。
 そして二年後、私は代表作のポジフィルムを用意していて、それを見てもらうことにした。その頃の私は既に645の中版カメラに切替えていて、ルーペで拡大しなくても、作品の出来がよく分かる。

「先生の作風とは少し違いますが、先生の作品を見て、自然写真の絵としての可能性を確信したんです」

 彼は、一枚一枚手にとって、天井の照明に透かして、ゆっくりとそれを見てくれた。そして真面目な顔をしてこう言った。
「君はもう充分にプロになれる実力があるよ。東京で個展を開くんだ。敷居が高いかもしれないけれどね」
「じつは今のこれでは、それは未だ早いと思ってるんです。もうすぐ完成しますから、それまで待ってて下さい」
「分かった。楽しみにしてるよ」
「僕も、もう少しです。彼よりもチョット遅れていますが」
「君たちは何時も二人で居るの?羨ましいなあ・・。君たちと東京で一緒に何かやりたいな。なんか楽しくなってきた」
「楽しみにしていて下さい。もうすぐだと思いますから」
「僕も同じです。楽しみにしていてくださいッ!」

 これはもちろん後で分かった事なのだが、その頃の彼は、写真誌の第一線で活躍しながらも、シニアを中心といた、主に「風景写真」を撮るハイアマチュアの間では不評を買っていて、門外漢的な存在扱いになてたようだ。プロの間でもそれは同様で、紙面で有頂天になっている様な彼を見下している大御所も多く居て、孤軍奮闘といったところだ。
 そんなことを考えると、その時に彼が私たちに言ったことが、本心だったのだろうと、今になって改めて思う。

 しかし、それにしても、あの記事には、やはり驚かされたものだ。
 それは、彼とそんな会話をしてから二ヶ月ほど経った掲載であった。

「写真には、絵としての価値があるはずなんです。言ってみれば、写真は、光で描く絵なんですよ。絵画の絵筆は写真のカメラとレンズなんです。それで、絵の具は光なんです。だから、絵としての価値を追求するべきなんです。人間の芸術としての表現媒体が進化して、今は写真が最先端ということなんです。だから、そういう視点で写真の価値を見直すべきだと思うんです」
「そのとおりだよ。君の言ってることは僕にもよく分かるよ。だから頑張ってるんだ」
「頑張って下さい。木原さんには、もっともっと頑張ってもらいたいんです」
 彼は、その言葉に私が込めた皮肉を感じた取ったかどうか分からなかったが、黙って神妙に頷いた。
「君たち、頑張れよっ!」
「木原さんもっ!」
 相棒が私をさて置いて大きな声でそう言った。
「サンキューッ!」

 そう言って立ち去る彼は颯爽としていて、何やらい勇ましい武士のように見えた。
 第一線で戦いの真っ最中の彼の存在感は確かなもので、私たちには及びもつかない、それは輝くような存在感だった。
 そんな彼に会って、話ができて、私たちの夢が一気に現実味を増したのは言うまでもないことである。

 そして、誌面を見たその日から、相棒の中で変化が起きた。
 木原和人に「追いつけ、追い越せ」が、その日を界に「打倒木原和人」になった。

 私は、というと、そのような気は特に無なく、何故ならば、最初から私が見ているのは、木原和人ではなく、彼が見ている方向の、そのもっと先にあるもだからであって、それは写真の価値に関わり実に奥が深く、実に困難だろうものであるからに違いない。しかし、私にはその時その先に確かな光の点が見えていて、それが日毎に大きく近付いて来るのがしっかりと見えていた。
 そして、それは、前田真三とその写真についても、まったく同じことなのだった。

 木原和人には、あの時、先に言われてしまったのだが、反面、私は少し嬉しい気持が有ったのも事実で、それは、後に続けて言うべき事がじつは未だ有って、それを胸に留めていたからに違いない。それは、「同じ絵でも、上手いか下手か、いい絵か否か、それが肝心」というものである。
「いい絵とは何か」と同様の意味で「いい写真とは何か」それを追求したかったのだ。
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<シナリオ>この空の青さは  「ストーリー」

五月の半ばになってやっと春らしくなった信州の自然公園。
野鳥の囀りに混じって「カシー、カシー」というカメラの軽快なシャッター音が静かな森に響きわたる。

そこには、腹這いにまでなって、まるで対話をするように顔を寄せて小さな花の写真を撮る青年の姿が。
可憐なカタクリの花を見つめているうちに、ある熱い思いが心の中にこみ上げてきた。
「明日、彼女に会いに行こう。そして今度こそ・・」
大学のキャンパスに戻っても、その強い思いは衰えず、足取りは、そのまま一直線に彼女のもとへ。

留年仲間の気のいい友の励ましもあって、足元に絡みつく一抹の不安など物ともせずその勢いはたいしたものだ。
一抹の不安-それは、自分が二流大学の落ちこぼれだという劣等感か。いや、それよりも、先輩が唱える極めて悲観的な恋愛論だ。
なんとなく好きというのがベストで、本気で好きだということを確認し合って始まる恋愛などまず有り得ない、という「日本的恋愛論」。

いったい何ていう話だ。そんなことが有ってたまるものか。じつは青年は、今日こそ彼女が本物の相手だということを確かめるために彼女に会いに行くのだから。そして、全てが始まるのだ。それが「自然」というものだ、と。

去年の冬休みのアルバイトで出会ったっ彼女。二人のインスピレーションは確かなものだった。
しかし、どうして・・。青年が手をさしのべたとき、その恋は終わりを告げたのだった。
先輩の言う恋愛論が正しいとでもいうのだろうか。いや違う。野暮な邪魔が入ったし、アプローチにも問題が。例外もあるさ。その証拠に・・・
水曜日の午後四時ちょうど。毎週毎週、同じ曜日の同じ時間。女子大の通学路。広場のベンチ。彼女がそこを通って、青年がそれを見ている。そして、彼女も・・。それは、もう何週間も続いている幸福な時間。だけど、このままでいい筈はない。だから、今日。

「真っ白な陶磁器をながめては飽きもせず。かといって触れもせず」・・まるであの歌のように、しかし今日も一日が過ぎるのだった。
そこには、誰もが直面せざるを得ない「日本的恋愛の壁」があるのだと、先輩は言う、
いったいどういうことなんだ・・。先輩が放課後の黒板に大きく書いた「曖昧」という言葉。これが壁の正体だという。・・じゃあ、どうして・・。
「日本的自我」-そしてもう一つ投げかけられた新しい言葉。そして、本物の恋愛、本物の自我とは・・。
友人と議論するうちに、日毎に信憑性を増していく先輩の話。まるで大きな壁の中を走り回るように、青年の彷徨は続く。

彼の憧れはもう一人、新進気鋭の自然写真家、木原和人。一匹狼と異名をとる彼の存在が、何故か青年にとって眩しいほどに輝いたものだった。
ある日、信州の高原で、偶然にも彼に出会った青年。ひと時の眩しい会話。「俺は曖昧なものが嫌いなんだ。いい加減が好かれる時代には、嫌われてナンボさ」・・憧れは本物だった。
何故か、彼女への思いが花園の中で燃え上がる。
新たな決心を抱いて、彼女の元へ・・。「本物は所詮少ないものさ。日本的も糞もあるものか」二人が本物だということを信じて、今度こそ決着の日を決める青年。

自我と自我の触れ合い、それが恋愛というもので、その時にこそ自我の本質が試されるのだと言う先輩。本物になれる確立は千分の一だとも・・・。
それにしても、この空の青さはどうだ。
あたかも運命を見守るかのように、二羽の鳶がその日も悠然と青空高く飛行していた。
そして・・・。

③ポスト木原和人

「どうしよう。直ぐにオリンパスに電話して、木原さんのお悔やみを言わないとな・・」

 そのとき相棒は、東京のオリンパスギャラリーに、プロとして出発するための個展開催の審査を申し込んでいて、その結果を、名古屋の実家でじっと待っていた。
 木原和人は、そのときカメラをキャノンからオリンパスに持ち替えて、オリンパスが事実上のスポンサーとなっていた。
キャノンから鞍替えした事情は私の知るところではないが、とにかく車も写真も全てがオリンパスブランドになっていた。
 相棒は、純粋に木原和人に憧れて、追いつけ追い越せという気概で写真を撮ってその腕を磨き上げる日々だったのだ。
木原和人はレッスンプロよりも大御所作家へ移行するだろうし、そのポストがそのうち空くという予想はできるのであるが、
それを虎視眈々と狙っている若手カメラマンは、この辺りに無数というほどゴロゴロしているのは自明であった。
 そういう意味では、彼のとったプロへのアプローチは、私の亜流とはいえ、ずっと潔いものだった。

 「大丈夫かなあ・・。そんな大袈裟なことじゃなくても、ただのアマチュアの写真展として申し込めば良かったのかな・・。なんだか怖くてしょうがない。あああ、ダメかも・・。結果、なんだか遅いんじゃないかな・・。ああ、どうなってんだろ・・」
 
「俺の時は、最初から二週間と言われてて、三週間目に結果が来たな・・」
「それは聞いてないけど、今週がその三週間目になる。わっ・・こわっ・・」

 彼は、私がとった写真家としてのプロデビューの方法を、そのまま踏襲して、まったく同じようにオリンパスに相談を持ちかけて、一か八かの回答を待つことにしたのだ。
私と同様、写真界には何のコネもツテもなく、誰の紹介もない。ただ、地元名古屋のオリンパスには、修理の時などに何回か通ってて、私と違って社交性に富む分、たいそう顔馴染みになっていた。
 しかし、そのようなアマチュアは大勢いて珍しくないので、それが物を言うとは考え難かった。  

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「いいんだよ。俺はとことんお前の真似して何処までも着いて行くからな。行くとこまで行ってやる。食べる物もやる事も真似をして、同じにしてたら同じようなことになるのさッ!」
 何につけて私の真似をする彼を揶揄したときに、相棒は、冗談めかして、そう言って笑って見せた。

 学生時代に出会ってからというもの、彼はずっと私の横にくっ付いてきて、離れようとしなかった。元来、独りでいるのが好きな私は、最初、鬱陶しかったのであるが、次第に慣れてきて、何処へ行くにも何をするにも、何時も二人という有様で、所謂「相棒」のような存在になっていた。
 基本的に独立心が強い性分の私には、有り得ないことの筈だが、それが不思議に苦痛ではなく、私に無いものを彼は持っていて、底抜けに陽気で明るく、冗談が好きで、社交性に富んでいる。おかげで毎日笑いが絶えない。私が冗談を言わないかというと、そうでもなく、彼に言わせたら「お前の冗談は俺のとは違って、リアルというか、腹の底から笑わされる。俺のなんか薄っぺらくて、話にならん」そうだ。
 「映画というものは一人で観るものだ」と考えていた私だが、いつの間にか映画館の隣の席には何時も決まって必ず彼が居る。映画によっては、気まずい感じになる筈のところも、構わなくなってしまったほどだ。
 観た後には、決まって喫茶店で映画評論に花が咲き時間を忘れた。私が一方的に映画論を語り、彼は専ら聞き役立った。それが何時の間にか政治や社会の時事ネタになって、最後は写真論となる。「この前の木原の写真どう思う?」と。

「お前は、本当は写真家じゃなくて、映画監督になりたいんじゃないかの?」
 けっして冗談ではない顔つきで唐突にそう言う彼に対し、私はあっさりと答えたものだ。
「じつはそうだよ。分かっちゃった?」
「写真家になりたいというのは嘘だったのか?」
「それは嘘なんかじゃない。写真の才能については確信を得たし、この分野は未だ未開の地なんだ。芸術としての写真、それ自体に可能性がある。俺は木原和人が好きだけど、お前のように作品そのものには憧れちゃいない。彼が追求するものの先にあるものが俺には見えてて、今、俺は、それを目指すことに取り付かれてるんだ。映画と違って、これは一人で作れるものだからな。・・そういうことだ」
 暫く静かに聞き入っていた彼は、真剣な顔つきで落ち着いて言った。冗談はない。
「俺はお前について行く。何処までもついて行く。一緒に写真家になる。そして俺も映画監督になる。何処まででもお前について行く。・・行ってやる」
「おいおい、映画監督はやめとけよ。調子に乗るな」
「いや、お前が黒澤明なら、俺は古沢憲吾だ。日本中ヘソで茶を沸かさせてやる」

まんざら冗談でもないような口調で話す彼は、何時の間にか乗ってきて、喜劇の構想を語り始めた。今は覚えていないが、それは荒唐無稽で、斬新で、思わず笑い転げた記憶がある。こいつはもしかしたら・・と思ったほどだ。

お互いが、無意識のうちに無くてはならない存在になたのは、いつしかレールの無い道を進むことになった二人にとって、それは極めて自然の成り行きだったのかも知れない。

「お前がペンタックスなら俺はオリンパスで行く」と言って、プロを目指す事にした時に彼が購入したのは、「オリンパスOM2」という一眼レフカメラであった。当時、世界最小最軽量を売りにしていて、特に、得意のズイコーレンズ郡の中でもマクロレンズを押していて、そのカタログには、木原和人の作品である花や昆虫のアップ写真が多数使われていた。
彼は、その時オリンパス専属のカメラマンとなっていて、ジュニア向けのカメラ月間誌「キャパ」なんかでは、創刊当初から「ネイチャーフォト講座」などという誌上セミナーで、特に大活躍をしていて、毎月彼の新作を見るのが二人の大きな楽しみだった。
 その時に何時も彼が手にしていたカメラはオリンパス製で、タイアップということだった。プロの仕事はメーカーとの関係は必須で、彼の場合、セミナーが主な仕事に違いなかった。事実上レッスンプロである。
 相棒は、その木原和人の写真と勇士に心底憧れていて「あんなふうに活躍したい」という単純なものだった。私は、そんな表面的な彼の動機について、少し不満が有ったが、そこは個性の違いだとして、そのまま彼を励まし続けた。

「木原のような写真を撮っても始まらないぞ。木原とは違う、木原を超える写真じゃないと」
「分かってるよ。俺はこう見えても馬鹿じゃないんだ。今に見てろよ、木原和人。そろそろ世代交代だ。写真も古い。今は誰でもあのくらいの自然写真なら撮ってるんだからなッ」 
「お前は木原和人。俺は前田真三。そうだったからな・・」

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 私は木原和人に対しては、写真そのものよりも、その孤高ともいえる人物像に興味があって、尊敬すらしていた。雑誌の会談などで垣間見れる特別な個性の強さなに漠然としたものながら憧れていたのだ。
 私が最初に憧れた写真の作者は前田真三で、木原とは全く違ったフィールドで活躍していて、カメラ雑誌等のアマチュア相手の写真指導は一切せずに、主に企業カレンダーに作品を高額で提供していて、それだけで年商一千万を超えるという憧れのビジネスモデルの存在を、私に示してくれていた。
 彼は風景写真が専門分野だが花も撮る。年齢は木原和人よりも二周り以上だが、プロになったのは遅く、一流商社を突然辞めて独自の資力でのし上がった異質の作家だ。孤高というなら、こちらの方が上かも知れない。しかし、資産家なので、あまり人物的に憧れるようなことはできず、ただ、その絵としての完成度が高い作風に憧れていた。風景を独自の感性でデザイン的に切り取った作品が、当時の日本では斬新だったのだ。
 そして、写真そのものの可能性というものについて、それが私に目を開かせてくれたのだった。木原和人が現れる、ほんの少し前のことである。
  
 私は、その頃には35ミリのフィルムが物足りなくなっていて、ブローニーサイズに切替えていた。明らかに前田真三の影響である。最初手にしたのは、「マミヤM645」という世界で初めて6×サイズの上下が少し短くなったもので、ハイアマチュアには中途半端だとして余り人気が得られなかったものだが、軽くて小さくてホールディングが良いので、私はそれで充分だった。
いや、これがベストだとさえ思って、世のハイアマチュアの言うことなど、全く意に介していなかった。プロより経験も腕前も上だという彼らの存在自体に、私は何か疑念のようなものを感じ、その世界に自然に遠ざかっていて、アマチュアコンテストなどにも一切応募をしなくなっていた。

 この世界のハイアマチュアが如何にハイレベルであるかは疑う余地はなく、それは見上げたものであるのだが・・。彼らがプロを上から目線で見ている現状があり、プロよりもアマチュアの方が腕前が上というのが実際のようだ。
 それは、月刊の写真雑誌を一度めくれば一目瞭然で、口絵を飾るプロの作品と、アマチュアのコンテスト作品を並べて見れば直ぐに分かる。特に、風景写真などでは、偶然の自然現象を捉えたり、タイミングの機会に恵まれた地方のアマチュアの方が、地の利がある分恵まれている。コンテストで上位の賞を取るのは、そういったアマチュアならではの機会を捕えた作品が多く、審査員が「まいりました」と諸手を挙げて褒められる。
 とにかく、それは、プロよりも上手いアマチュアが存在するという、じつに珍しい世界なのである。

 私が最後に応募したのは「マミヤフォトコンテスト」で、ポジフィルム部門の入選だった。小さいが綺麗で立派な盾がもらえた。M645のマクロレンズで黄色い夏の花の上のキハラムシを撮ったカラーの自然写真だ。「花に憩う」という題名だった。思ったとおりの「絵」になっていて随分と自信があったので、ちょっと不満足な賞だった。審査員に佐々木昆という昆虫接写の第一人者が入っていて、自然写真部門の担当だった。その先生にとって私の「綺麗なだけの昆虫写真」がどう写って、どう評価したのかと、今になって想像すると、この結果には興味深いものがある。彼らのような、植物や昆虫の古参の生態写真家が、このように花や虫を綺麗に撮った写真を「キレイキレイ写真」と呼んでいる事を、後に知ることになり、それを思うと本当に面白い。「キレイキレイ写真」が何たるかを示すには充分な作品だったと思うからである。

 そのような写真の第一人者こそ、木原和人その人で、私達は、その作品に触れて、綺麗な「自然写真」という、新しいジャンルの存在と、その可能性というものに心を躍らせて、孤高のプロとしての彼の勇姿を、眩しく見上げることになるのであった。   
  「キハラムシ」とは、木原和人の作品によく登場するバッタの一種で、幼虫も成虫も足や触覚が長くて仕草が優雅でフォトジェニックだ。「ホソクビツユムシ」が正確な名である。どことなく彼の容姿に似てたりもしていて、よく見付かるし、私たちの間で、いつしかそう呼ぶようになっていた。

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「馬鹿・・。考えてみろよ。木原和人の訃報をお前がどうして知ってるんだ?」
「それは、お前から聞いたからだよ」
「俺は上京してて、昨日ペンタックスギャラリーにたまたま行って、ホットニュースに出くわしたんだよ。そこの誰もが昨日その訃報を知ったばかりなんだぞ・・」
「お前から聞いたって言うよ」
「オリンパスは俺のこと知ってるのかよ。分かんないだろ。多分、業界でもペンタックス以外じゃ俺は未だ未だ無名なんだぞ。俺が誰で、お前とどういう関係かとか、説明するのか」
「説明するよ」
「それはやめておこう。それはやらない方がいい」
「どうして・・?」
「とにかくダメだ。それは未だ早い。それには未だ時期尚早だ」
「お前が何か困る事でもでもあるの?」
「バカ。お前だよ」
「・・・・」
「お前は俺と同じになって喜んでるけど、オリンパスや業界はどう思うかな?面白がって喜んでくれるか?」
「けっこう面白い話だと思うんだけど・・」
「それは、本当に二人ともがブロになれて、その時になら、もしかしたら珍しくて面白い話になるかも知れんが、今はそうじゃないからッ・・。」
「よく分からんけど、お前がそんなに言うんなら、そうなんだろう・・。やめとくよ。大体今までお前が言ったことで間違った事は無かったからな」
「とにかく、今の時点でお前がこのニュースを知ってるのはおかしいんだよ。新聞なんかにも載ってないし。それほどの社会性は無いんだよ。カメラ誌には載るだろうけど、月刊誌だから、早くても次の号の6月号か、それに間に合うかどうかも」
「連載してたキャパなんか追悼特集とかやるんだろうな・・」
「そりゃやるだろうね。・・とにかく、ちょっと待っておけって」
「6月号で知らせがあるまでか・・」
「いや、ちがう。オリンパスの結果が出るまでだ。それまで絶対に動くんじゃないっ」
「雑誌で報せがあってもということ?」
「そうだ」

 なんだか分かったような分からないような顔をして、ウンウンと頷いている彼を想うと、訃報を知ったからには黙っていられないという純粋な気持を尊重するべきだったかも知れないと思ったが、直感的に引き止めたのには、それなりの理由があったのも確かなことだ。

「じゃあ、いつ頃・・」
「そんなに慌てるなって。だいたいお前は今、オリンパスからの審査結果の報告を待ってるところだったんだよな・・」
「ああ、そうだった」
「だからさあ、たとえいくら木原和人の訃報を知ったとしても、お前の方からオリンパスに電話して、何を言うんだよ。・・『木原さんが亡くなるなんてショックです。お悔やみ申し上げます。ところで私がプロになる件ですが、そっちの方はどうなってますか?』・・とか言うのか。『木原さんの変わりに是非とも頑張らせて下さい』とか言うのかよ・・。喜んでるようにしか見えないぞ」
「まさか。ダメだダメだ。それはダメだ。みっともない。それは無い」
「だろ・・。だから、とにかく今はオリンパスからの審査結果をまってればいいんだよ。木原和人の訃報をお前が知ったとしても、それまでじっとしてろって。何も動くな。絶対に動くなよ。動いたらダメだ。とにかく我慢して吉報を待て。絶対にだぞ。絶対に・・」
「いつ連絡あるんだろう。このままなかったのして」
「そんなことはないと思う。今ごろ相当悩んでるのかもしれないな。ちょっと状況が状況だけに」
「まいったなー。なんか大袈裟な事になってたりして・・。怖くなってきた」

 私は、その時、ポスト木原を虎視眈々と狙っている若手カメラマンが、多数存在していることを知っていて、彼らが、その訃報を知って、お悔やみついでにオリンパスを次々と訪れる光景を思い浮かべていて、相棒には、そんな彼らと同じような浅ましい事をさせたくはないのであった。
 もちろん、彼の場合には、そのような下世話な下心があるわけではないことを分かっていたが、その純粋を理解できる人物が、この世界にどれだけ居るものか、分かったものではないからだ。それに、彼が提出した作品が必ず評価されるものと確信していたのもたしかである。木原和人の路線だが、明らかにそれを超えたものがあるのだ。私の指導の賜物と言ってもいいだろう。何故なら、彼がそれを何時も認めてくれていたからだ。

「ダメだこれ」「これは惜しい」「ダメだこれ」「これはいい」「これは凄い」
「きびしいなー」「けっこういいだろ」「そうかなー」「だろー」「「凄いだろ」

 何年もの間、一緒に撮影に出かけて、出来上がりを持ち寄って、そんな感じで私の家で品評会をする毎日だった。私は何時も厳しくて、残る作品が一点も無いことさえよくあり、厳しさには定評があったのだ。
 そして、ついに写真展の提出作品をセレクトする日が来て、一緒になって夜更かしをしたとき、「やったなっ!」と私は思わず大声で祝福したものだった。
 
 後日、オリンパスの現場において、数多くの若手が訪れて売り込み来るという光景が、実際に展開していたと聞いて、あのとき止めたことが正解だったんだなと思ったものである。
 そして、暫くして5月も終わろうとする頃、やっと、相棒の元に審査結果がもたらされ、それは吉報であった。

「森さん。覚悟はいいですか。木原さんの後を、宜しくたのみます」・・という。

②相棒

「昨日、ちょうど俺は近くの山へ行って、タンポポとテントウムシの写真撮ってて、木原を思い出してたんだよ。あの野郎、今に見てろよ、目に物見せてやるからなっ・・て。それこそ虫の知らせってやつだったんかなあ・・・」
 
 一足早く上京して写真家としてプロデビューを果たした私に、置いて行かれる形となった相棒は、その日の夜私から電話で木原和人の訃報を知らされ、そう言って感慨深げに言葉を吐いたあと、暫くの間黙り込んだ。
 そこには、彼の決して一言では表せない特別な感情というものが見て取れて、その沈黙を、私は暫くの間絶つことができないでいた。

「そうか、本当だな。そういうことだよ。木原和人はお前にとって特別な存在だったからなあ。俺もショックだったけど、お前の方がもっとショックだろうな、そりゃあ・・」

 彼は、私に一足先を越された形だが、現在、私と同じように東京の写真ギャラリーでプロデビューの準備をしていて、その審査待ちをしているところだった。時間差にしたら、ちょうど半年くらいで、私は、よくもまあ喰らい付いてくるものだなあと、関心していた。
 私はペンタックス。彼はオリンパスだった。同じように、プロとして出発するための写真展を開くための審査を正式に申し込んで、大人しく待っているところなのだった。そして木原和人への心酔は意味は違えど私よりもずっと大きいものだった。
 
「お前がペンタックスだったら、俺はオリンパスで行く」そう言って始まった二人のプロデビュー競争であった。お互いに何のコネがあるわけでもなく、何のツテも無いまま「写真で勝負だっ」とばかりに日々田舎で武者修行、切磋琢磨の日々なのだった。
 
 田舎といっても、そこは名古屋で、文化的に閉鎖されたようなところがあるが、けっして息苦しくはなく、それ故の静けさは、黙々と自分を作り上げるには非常に良い環境であった。
 足助町とか、奥三河の自然が近く、ちょっとした自然写真が直ぐに撮りに行ける。とくに段戸裏山などという奥地は写財が豊富で、四季を通して数え切れないほど足を運んだものだった。 私は、たしかに間違いなく、その場所で自然写真におけるオリジナリティを開眼したと言っても過言ではない。

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「留年するとは思ってなかった。俺たちどうなるんだろ」
「俺もだよ。まったく分からん。どうなるんだろうな」
「落ちこぼれのレッテル貼られちゃったな・・」
「これは、もしかしたら、自然の成り行きかもな。なるようにしてなった。二流の大学から落ちこぼれたんだから、俺たちは二流じゃないということになる。そういうことだ」
「三流ってことか」
「ちがうよ。それ以外。いや、じつはそれ以上、規格外ということかもな」
「ほう・・」

 そんな会話をして、特別に確信した理由もないまま、落ち込む友を慰めた記憶がよみがえる。もちろん、それは、自分自信に対する慰めであったのも確かであろう。
 彼が、私の[相棒」になったのは、大学の2年の時に一緒に留年をしたのがきっかけだった。同じ学科の同級で顔は知っていたが一度も話をした事は無く、お互いに違うタイプだと思って、関心が全く無いままだった。
 留年して最初の授業に出た時に、初めて会話を交わしたが、その印象は思っていたものとは大いに違っていて、何故か心を許して何でも自然に語り合えることに驚いたものだった。
 かつての学園ドラマに出ていた柳沢真吾に顔も雰囲気も似ていて、何やら騒がしい。「なんて軽薄な奴なんだ。少しは静かにできないのかよ」と、他人事のように遠巻きに思ったものだ。
 彼の方も、それは同じで、「とっつきにくい奴だな。いつも独りで静かにしていて、何を二枚目ぶっているんだよ」ということだったようだ。けっしてそんな意識などはなかったが、柳沢真吾のような三枚目のタイプではないことは確かであった。
 
 「お前って案外、色々と落ち着いて喋れるんだな。見間違えていたよ。いつも大勢の中でふざけてはしゃいでばかりいて、何も悩みがなくて、羨ましい奴だなあと思ってた」
「ああ、あれは本当の俺なんかじゃない。いくらはしゃいでも空しいものだった」
「へ~え。面白いこと言ってくれるなあ。本当の自分だとかなんとか。ほんと意外だわ」

 私が、彼の意外な一面があるのを知ったのは、思えばこの時だけの事ではなかった。
何時も徒党を組み集ってはしゃぎ合っている割に、マージャンに誘われたり、ボーリングに誘われると、何時も断わって一人で帰って行く姿を何度か見ていて、「あれ?」と思ったことがあったのだ。その事を何気なく話してみたら、それは決定的になった。

「あいつらと遊んでいても空しいんだよな。楽しいことは楽しいんだけど。何か違うんだよ。何だかよく分かんないんだけど・・。ためにならないというか、何というか・・。あいつら、要領いいし、どこかちょっと・・」

 あいつら、といっても、べつに不良や遊び人などではなくて、それは、成績がクラストップの優秀な人物を中心とした取り巻きの一団で、それは極めて健全に学園生活を謳歌しているようだ。
 工業大学の工学部なので、女子学生は殆んど居らず、建築課などに数人が居るだけで、この科はゼロだ。男同士で気楽に楽しくやっている。時々、合コンの話が極たまにあったりするが、少なくても学園内に女ッ気というものは皆無だ。
 私はというと、そんな学園環境が気に入っていて、郊外の丘陵の中にあることもあり、この上のない静けさというものが、大好きなのである。大学は遊ぶ所ではなく、学問を極めて自分を磨く所なんだと、本気でそう思っていたのだ。いうならば、自分探しで、真剣に「本当の自分」を探そうとしていた。ただし、通学途中に見かける近くの女子大の可愛い子に、いつか告白しようと密かに心に決めたりしていたことはあるのだが・・。
 彼らが講義を受ける席は、何時も最前列で、教授と仲良くなって、小声で試験に出るところを教えてもらっているそうだ。それを知っていて、試験の前になると、そこから情報を仕入れるために、お近づきになる学生は少なくなくて、私なんかも、中の気の良い奴と通じたりしていて、その最小限のおこぼれを授かり大いに助かっていた。

「お前は、あいつらの情報が欲しくて、いつも近付いてたんだな。チャッカリしてるな」
「いや、べつにそんなことでもないんだけどな・・。たしかに試験の時には助かったけど」
「そんなお前が、なんでまた留年しちゃったのかねえ。上手くやってたんじゃないのか?」
「いや、だから、そんなにはベッタリじゃなかったんだってば」
「情報不足だったな。まったくもって。油断しちまった。てか、なんかそういうのに飽きた。試験問題なんて、教科書や授業の書取りの中でどこら辺が出るかが分かって、そこんところを全部丸暗記すれば満点が取れて、どれだけ情報を掴んで、どれだけ覚え切れば、どれだけ点数が取れるか・・そういうことだろ?」
「確かにな。日本の試験は、何でもペーパーテストの点が成績評価の8割を占めて、大学もその例外じゃないと。欧米はその間逆だとか、この前読んだ本にも出てたよ」

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 私は、その頃、世間で「日本人論」が世間でブームになっていたこともあって、その手の書籍を知らぬ間に読み漁るようになり、よく出てくる「日本的」という言葉に強く興味を引かれていたのだ。とりわけ、その功罪についての論評には目がなくて、中でも、「日本人に生まれて損か得か」なる署名の新書は面白すぎて、今も書棚に残っているほどだ。ドイツ人と日本人のジャーナリストが対話形式で日本論ブームを総括的に綴る、その手の中でぱ究極的なものと確信している。
 大学の経営学の教科書に「日本的経営」という一項目があって、私は、その時「日本的とは何かという素朴な疑問に囚われたのだった。ほんの数ページの記述しかなく、私は書店や図書館でその学問の書物を読み漁り、卒論も「文化人類的アプローチによる日本的経営の源流とその本質について」などというものになった。

私の大学は、「愛知工業大学」という名古屋の郊外にある私立の中堅校で、今は偏差値が上がったとか聞いているが、当時はそれほどでもなく、特に私の入った「経営工学科」は、志願者が少なくて倍率も一番低かった。
 私は公立の工業高校機械課の出身で、大学進学は頭に無かったのであるが、卒業間近になって、急に「就職」が怖くなり、親になんとか一年浪人を許してもらって、念願の大学に入ったのである。
 そして、念願というには、それなりの意味があった。高校三年の時の教科書に「経営工学」という項目があり、それは、主に生産工場における効率を学ぶ、生産管理や、人事管理、人間工学など、そこで働く従業員の人的管理についての学問で、強く興味を魅かれた。いわゆる知識欲というものが一気に芽生えて、このまま就職ではなんとも居た堪れない状況に陥ったのである。その頃の社会で「就職」という言葉は今よりずっとそれは重く響くものだった。
 父は基本的に出世欲がない人で、私に対してもそれは同じく何時しか受験戦争から逃れることになっていた。しかし私の懇願に「仕方ないな」と一言言って、一年だけ浪人を許してくれた。進学なら、成績がそこそこだったので、或る私立の工業大学へ推薦入学ができたのであるが、そこには肝心の「経営工学科」が無く、それが有るこの大学へと道を進めた訳だ。この学科は全国でも珍しく、公立私立を合わせても数校しかなく、それがどこも難関校で、地元に入れそうな倍率の大学があることに選択の余地は無いのであった。
 今は、付属の「愛工大名電」という高校が高校野球で有名で、イチローの出身高校としても名が高い。相棒は、正にその高校の出身で、エスカレーターで入って来たのだが、何故か私と同じように一浪している。他の大学に行きたくて受験したのだが落ちてしまい仕方なく、上の大学の一番倍率の低い科に押し込まれたということである。この経営工学科が如何なる学科であるかなど、まったく知ったものではないということだ。

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「俺に写真を教えてくれないか。俺、趣味が無いから、何かやりたくて。なあ、いいだろ? 教えてくれよ。授業料、月に千円出すからさあ。いいだろ。なあ・・」
「千円だと?十年早いわ。いや、金額の問題じゃない。俺は、じつは遊びでやってる訳でもないんだよ。真剣に取組んでるんだ。写真というものの芸術としての可能性というか何というか・・俺自身の可能性もなんだけど・・なんというか・・」
「お前は、やっぱりプロの写真家を目指してるのか」
「いや、そうでもない。と言ったら嘘になるか・・そう簡単になれるものじゃないようだし・・。とにかく今は、写真の可能性について追求してるところなんだ。だから・・お前に教えてる暇なんか無いし、余裕も無い」
「へえ~。おもしれえ。なんだか俺も写真家なりたくなっちゃった」
「バカを言え。軽々しいにも程がある。そんなノリでなられたら困るっ!」
「分からんぞ・・あんがい才能有ったりしてな。俺、子供のとき絵を描くのが得意だったから」
「へえ、それは知らなかったな。本当かよ」
「本当さ。もしかしたら、お前よりも才能あるかも知れんぞ俺。マジで。ほんと」

 もしかしたら彼の才能は本当に凄いかもしれない、じつはその時私はそう思ったのも確かであった。それは一年の何かの講義の時だった。
「ここに一片のレンガがある。これをどのようにしてもいいから考えられる利用法を思い付くだけ書き出すように」という教授の出題に彼は驚くべき回答を出して、教授を驚嘆させたことがあるのだ。「こんな大量の利用法を見たのは初めてだ」と誉められたのだが、「まだまだ有りますよ。書き切れなかったですからね」とは私もたいそう驚いたものだ。現実的な私の答とは違い、その発想は飛び抜けたものだった。煉瓦を切ったり砕いたり、磨り潰して塗料にしたり等々、とにかくまるで無限台の如くの回答である。
 それに対して教授は「はははっ」と笑い、教室にも笑いが広まった。しかし、私は実は笑わなかった。いや、笑えなかったのだ。それは、「この教授は彼の才能に気付いたのだろうか。気付いたとして笑って澄ますのか」・・と、他人事ながらそんな心配が私の頭を過ぎったからだ。そして、それはやはり空しい笑いに他ならなかった。
 「おちこぼれ」・・それは、何時何処に於いても、極めて日常的にそのようにして生まれているのかもしれない。

「じゃあ、やってみるといい。面白いじゃないか」
「やるやるっ。これは面白くなってきた。やったぜベイビーッ!」

 大学四年の春の長閑な昼下がりの教室で交わした、そんな無邪気な会話が、今、懐かしく思い出される。
 その時、それが、二人揃って将来プロの自然写真家を目指す真剣でドタバタな冒険珍道中の始まりになるなどとは、まさか誰も思ってなどいなかったのは、言うまでもない。

①木原和人が死んだ

「木原和人が死んだってっ!」

 見知らぬ顔の小太りで小柄な中年の男が声を張り上げて勢いよく突然そこへ飛び込んできた。大袈裟に騒ぎ立てるような男の様子に私の目は思わず窄まった。
 紺色の着古したような背広が品の無さを助長している。丸顔のその口は突き出てまるで小さな薬缶が沸騰してピーーと鳴っているようだ。

 1987年の春、ここは新宿三井ビルの一階にあるペンタックスフォーラムのメインロビー。私はその日、つい最近開催したプロとして初の写真展を終えたばかりで、担当者と事後処理などについて打合せのために訪れていた。

「びっくりしたなあっ!早すぎるよなっ!四十だって?!胃癌だってなっ!」

 場所柄から人の出入りがあるといっても比較的静かなロビーに野卑な声がこれ見よがしに響き渡る。ソファーに座したスタッフやアマチュアの客が、男を見上げ、揃って「うんうん」と頷いた。私もその例外ではなく、同じように頷いていた。

「胃潰瘍で入院したの退院したの聞いてたけど、まさか亡くなるとは想ってもなかったよ。藤田さんも、それはびっくりしたでしょう」
「もう本当に今日はショックですよ。ちょっと今、ここから立ち上がれなくなっちゃってますから」
 
 そうだろうそうだろうと頷きながら、佐々木さんは神妙な顔で私を静かに見つめた。

 そのニュースは、丁度この日、ギャラリーに伝わっていて、偶然来た私は突然その悲報を知らされて、言い様の無いショックに打ちのめされていたのだった。私にとって本当にそれは衝撃で、その時本当に目前が白くなる感覚を生まれて初めて体験したほどだ。

「いやーあ、ビックリビックリ、まいったまいった、ショック!ショックッ!」

 男は叫ぶようにそう言いながら反対側にあるスタッフルームの方へと消えて行ったが、遠くで更に騒ぐ様子が聞こえてくる。

「なんか、瓦版みたいな人ですね」

 私はそれが何処のどんな人なのか知りたくて、少し笑ってそう言ってみた。どうやら、プリントや額装を専門に扱うこのギャラリーの納入業者で、スタッフにはお馴染みの顔らしい。私の時の業者とはライバル関係のようだ。
「違っててよかった」とその時心の中で呟いたが、それよりも「喜んでるのか」と囁いたことの方が記憶に確かなものがある。もちろん周りには聞こえない声で。
 何にしろああやって騒いでくれる人が居るのは故人にとって悪い事ではないと、私はその時思ったものだ。それにしても、故人を呼び捨てにして平気な彼の言動に、一抹の不穏なものを感じ取ったことも確かであった。

「うちとしても写真展の案内状出してあったんだけど、来なかったのは、来れなかったんだね。もう悪かったんだな・・」
「色んな話をする筈だったんです。写真展を開くことを勧めてくれたり、東京へ来たら知らせてって言ってくれてたんですよ。木原さんは」
「藤田さんは木原さんに憧れて写真を始めたんだったんですもんね」

 ギャラリーのスタッフで担当である同い年の佐々木さんが、深刻な面持ちでそう言って私の顔を見つめてきた。

「いや、正確に言ったらそれはちょっと違うんだけど。僕が写真を始めたキッカケは、前田真三、なんですって」
「あ、そうか、そうだった。そういえば聞いてたわ。すまんすまん」

何故かホットとしたように彼の表情から緊張が解れて場が和み、周りの空気も急に軽く明るい雰囲気になった。
そんな空気の急変に、私はその時、何かの違和感を覚えたのであるが、それが何だったのかが直ぐに分かった。

「いやいや!今日は大変な日だ!驚いた驚いた!」

さっきの男が一しきり騒ぎまくってまたこっちへそう言って近付いてきた。

「あの人はよく喋る人一倍元気な人だったからさあ、急に居なくなると寂しいもんだなあっ!」

  笑いこそしないが、やはり大きな声で話すその男の顔は異常に明るい。いや、晴れやかである。
人の不幸は蜜の味というが、これはやっぱり不謹慎なものである。ちょっと人格を疑った。何処の世界にもこういう調子の人は居るものなのだろうが、何やら穏やかならざるものを私は感じ取っていた。

「そうなんですよね。あの人が来ると写真の話ばっかりで、疲れるんですよ。いつもそうだった」

 一同が頷いているなか佐々木さんがボソリとそう言った。

「え?どういうこと・・?」

 小さな声のその言葉にひどく驚いた私は、彼に思わず大きな声でそう言った。
 「写真家が写真ギャラリーに来て写真の話をして何が悪いのか」と言いたかったが、喉元で止めた。

「いやね、彼が写真の話をし出すと止まんないんですよ、それが。直ぐに議論みたいになっちゃって。写真論なんだけど。遊びが無いというか何ていうか。冗談もあまり言わないし。疲れるっていうか何ていうか・・。どーもねえー」

  同席しているもう一人のスタッフと知らないカメラマンに同意を求めると、一人が「そうそう」と頷いている。
 「なんだこれは?」と思い、私は思い切って言ってみた。私にとってその驚きは特別なもので感情を抑えるのに苦労した。

「佐々木さんは、木原さんのことが嫌いだったんですか?」

 そういうと、何の躊躇いもなくのその口から直ぐに返答が返ってきた。それは余りにも明確で驚いたものだった。その表情は、への字になった繭間に皺をよせて、それが本心だということをアピールしている。

 その驚きは、じつは私は写真ではなく人物像において前田真三よりも木原和人がずっと好きであったからである。そしてその時、以前に機関誌の対談記事上で写真論を熱く語って写真評論家をやりこめている姿や言動が鮮やかに蘇えっていた。
 そして、私自身、もっとずっと若い時に彼と話す機会があって、本物の一匹狼を彼の姿に映してもいた。「本物とは何か」・・それが私のライフテーマに違いなく、何時の頃からかその答を何処でも何にでも常に求めているのであった。
「みんな甘いんだよ。完成度を求めずして何が芸術家だ」「写真家協会なんか入らなくていいさ。みんな名刺の肩書にしてハクを付けたいだけなんだから」「俺には敵が多いけど、仲間もいる。東京へ来たら訊ねて来なよ。面白いことしよう」
 あの日名古屋のギャラリーで彼と交わした初めての会話が鮮明に思い出される。

「藤田さんには悪いけど、正直言って俺はあんまり好きじゃなかったよ」
「いや、それはいいです。でも、どんなところが・・」
「何でもハッキリ言っちゃうし。白か黒かと詰め寄って来る。世の中ああいうふうじゃダメだって。適当にしとかないと。俺は嫌いなタイプだっな」

  一気にそう言って彼が私の顔を眺めているのは、それが決して無神経なものではないということを物語っている。

 そして、それは、この業界にこれから生きて行く私にとって、そんな木原和人を心の底から尊敬している私にとって、その言葉は、どれだけ強く胸に突き刺さったことか、思い出しても痛くなる。
 しかし、これは私にとって、じつは想定内のことであり、「やっぱり来たな」「そう来なくっちゃー!」という思いであったのも確かなことだ。

 それにしても、本物を求める私達の冒険の旗印の筈だった木原和人はもうこの山には居ない。その頂を目指す登山道は一体とんな道なのだろう。見れば、あちこちに彼の足跡が・・。そしてそれは、どれもが私の目に眩しくて鮮やかなものだった。
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