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⑬この山は

「本当に良かったですね。大丈夫と思ってましたが、なにしろ厳しい世界ですからね、不安でしたよ」
 その人は本当に嬉しい顔をして私の肩を叩いて握手をしてきた。

「僕も自信がありましたが、それはもう不安でした。芳賀さんのお陰です。本当に有り難うございます」
 屈託の無ない笑顔につられて私も自然な笑顔になっていた。

「いやいや、これは藤田さんの写真が良かったからですよ。その他の何物でもない」
 笑顔を止め真顔になってそう言う彼の眼は私の瞳をとらえて離さなかった。
 それは今までにないような物腰と視線なのであり、まるで日本人離れしているようだ。さすがに此処は「違う場所」なんだなと思った。

 「そう言っていただくと恐縮ですが、嬉しいです。本当に嬉しいです」
 私も真顔になって彼の瞳から眼をそらないようにした。本音も建前もない世界が此処にあるんだと確かに思った。

「ところで、今、どこかのエージェントに作品を預けてあるんでしたよね」

「はい。完全独占契約じゃありませんが、「PPS通信社」という所に預けてあります」


 私が此処へ来る前にPPS通信社を訪れたのには、それなりの理由があった。
 そのとき私は、何処かに営業を任せられるエージェントを本気で探していて、「ここだっ」と思って預けたのであった。会社訪問のようなことをして訪れたとき、担当者から企業理念などを説明され、本当にそう思ったのだった。
 「芸術とビジネスを結ぶ橋渡しをする企業」それがこの会社の基本理念で、その事が手渡された綺麗なパンフレットの最初のページにも記されていた。銀座という場所柄からして一流の雰囲気と良い緊張感が漂っている。
 社長はロバート・カーシンバウムというアメリカ人で、確かに他のエージェント(実際はライブラリーばかりだが)とは一線を画していて、外人の作品が多いようだ。しかし、外資ではなく日本の企業だが、どこか違うのだろうと私は思った。最初、報道関係の会社なのかと思ったが、それは全くの見当違いだった。
 最初の個展のときには面識もなく、新鮮な出会いに違いなかった。なんと理想的なエージェントが日本にも有ったものだと驚いたものだ。他の日本の会社と違った雰囲気があると確かに思った。

「この写真集の出版を無駄にしたくないんです。作家としてお役に立てれば幸いなんですが・・」
 私が持参した二冊の写真集と代表作のシートを前にしてそう言うと、担当者は一通り丁寧に写真集と作品原稿を見て(秋山庄太郎の序文も読んで)、何も言わずに企業案内のパンフレットを私に見せた。
 
「うちの会社は作家単位での取引を得意としておりますよ」
 そう言って、彼女は写真が収めてある部屋の一角に私を連れて行き、作家コーナーの引出を開けて見せた。
 その人は女性で、黒いスリムなジーパンと白いシャツを着た如何にもキャリアウーマンという趣で、仕入れ担当ということだった。当然名刺の裏は英語表記になっている。
 そこには何人かの日本の写真家の引出があり、私の知っている自然写真家も数人収まっていた。他のコーナーの引出と同じようにPPSブランドのマウントで統一されて閲覧できるようになっていた。

「契約作家はこれが全てなんですか?」

「はい。うちは少数精鋭でやってますから。うちの看板作家は水越武さんですよ」

 引き出しの一つにはたしかに彼の名前が貼ってあるものがあって、多数の写真フォルダがその中に収まっていた。見せていただくと、私が雑誌や写真集で見たことのある代表作らしい風景写真が。
 「森林限界」という写真集が有名で、ドキュメンタリーとして価値のある風景写真に違いない。木原和人と同世代で、彼と相反する作家の一連である。「キレイキレイ写真」と言って、その作風を揶揄して憚らない写真家たちの仲間で、それを私は知っているのだった。その情報は、もちろん相棒からのものであることは言うまでもないが、私自身、その一連の写真家の一人である植物写真家から、「きれいきれい写真」という言葉を授かっていて、なんとなく居心地が悪い予感がしたものである。
 木原和人が「N.P.S」を出て行ったのは、彼らがメンバーに居て、その作風と活躍の場の違いから次第に居場所の肩身が狭くなったのが大きな要因であることは容易に推察されるのだった。


 「N.P.S」とは、私が学生の時に常時それを鞄に入れて持ち歩いたほど心酔した写真集「光の五線譜」の出版元「ネイチャープロダクション」というフォトエージェントに所属するプロの写真家集団の名称である。
 その第三巻から木原和人が参入していて、彼特有の綺麗な花と昆虫の写真が数点採用されていた。「キハラムシ」もその時から登場していて、写真も綺麗だったが、それ以前の第一巻から既に綺麗な自然写真の写真集だったので、その時に彼の名前を特別にはリスペクトしておらず、寧ろ「栗林慧」という昆虫写真家の撮った花や昆虫の写真に眼が留まっていた。マクロレンズが普及し始めていて、撮影データが記載されていたりして大いに勉強になった。
 その写真集の後ろの写真家プロフィル欄のページには撮影作家の集合写真が「載っていて、どうやらお揃いのカメラマンジャケットがあるようで、それには「N.P.S」というロゴのワッペンが施されている。「ネイチャー・フォト・スタジオ」ということだ。
 私は、その写真集の影響で、前田信三の世界から次第にその世界へと興味が移って行くことになるのだが、それは写真よりも彼らのプロフィルのあり方に理由があった。彼らは皆そろって所謂「脱サラ」組で、裕福な資産家である前田信三よりもずっと身近に思えたからに他ならなかった。 1、2、3、と次第にカメラマンが増えて行き、皆お揃いの井出たちで、木原和人も最後にそこに入って収まっていた。そして、当時の彼の緑の愛車ランドクルーザーのボディには、それと同じデザインの「N.P.S」のロゴが白く大きく印字されていた。「自然写真家・木原和人」という、くっきりとした印字とともに。

 私と相棒は、名古屋の武者修行時代に、じつはその「ネイチャープロダクション」を一度上京して訪ねている。最近撮った写真を見てもらったりして、いろいろと社長の三谷氏と話ができた。社長は想像以上に気さくでいい人だった。
 「光の五線譜」は、業界で「五線譜調」と呼ばれていて思わぬ評判になった事、それに影響されるカメラマンが多い事など話した後に、意外な実情を知らされて驚いた。
 「あの写真集の作品は、実はうちの写真とは全くの別物なんです。花にしろ昆虫にしろうちはあくまでも生態写真のライブラリーで、それらを売り出している訳じゃない。その辺の誤解があると困るんですが」というものだ。
 所蔵の大量のストックを見せてもらうと、そこに収めてあるのは、言うとおりの科学的な生態写真としての花や昆虫、動物の写真ばかりであった。
 それよりも意外で驚いた事実は、その時には既に木原和人がそこに居なかったという事である。その頃、彼はジュニア向けのカメラ月刊誌に「自然フォトセミナー」として登場していて、私達が注目し始めているのであった。

 「彼は少し前に此処を出て行きました。経緯は簡単にお話できませんが、色々と考え方が違うということです。残念でしたが・・」
 「作風の問題でしょうか・・。僕たちの写真は木原さんにすごく近いんですが・・」
 「そうですね。こういう写真が有ってもいいと思いますよ。欲しいかもしれない。もっと沢山できたら持って来て下さいよ」
 「ありがとうございます。まだまだ少ないですし、もっと良いものを作らないと駄目だと思っています」
 「そうですか・・。今の時代そういう若い人が少ないから、楽しみににしてますよ」 
 そんな会話を社長とした覚えが確かに私の記憶に残っている。
 そして、もしかしたら将来お世話になるエージェントが此処かも知れないと思ったのも確かであった。脱サラしたプロのカメラマン集団が此処に専属して養われているとしたら、なんと素晴らしい事なのだろうかと思い、私の夢が大きく膨らむのであった。

しかし・・
「俺は此処はもういいよ。来ることは無いね。お前に譲るわ」
 相棒は、昔からまるで犬の如き独特の嗅覚を持っていて、胡散臭い物に対して自然に吠える習性があった(早とちりもよくあるが)。木原和人が出て行ったのは追い出されたんだろうし、生態写真が主力だと言うし、とにかく嫌だということである。
 そういえば、初期の集合写真をよく見ると、木原和人は何時も端の方に居て、一人だけどこか不安そうな表情をしているように見える。

 そして、上京してから、その嗅覚が正しかったことが証明されて驚いた。彼がその周辺の誰かと酒の場で会って仕入れた情報であるが、その誰もが皆そろって「脱サラ」とは言えバックに何らかの食うに困らない背景を持っているということだった。現に私達が上京当初訪れた近隣の植物写真家の平野隆久氏(N.P.S)は妻が華道教室の先生だった。
 それにまた、訪問した時の彼の仕事部屋には大きなカレンダーの一枚が壁に貼ってあって、それは「アサザ」という水生植物をアップでとらえた綺麗な花の写真であった。黄色い珍しい花が青空と水に映えて美しい。アサザは帰化植物なので野生ではなく、私の興味の対象外だったので気にならなかったが、生態系の彼が活躍する植物図鑑のそれとはまるで違った作風であることに違和感を感じたものだ。それは正に木原和人のような「キレイキレイ写真」に他ならなかった。後から思えば何かおかしい。


 相棒の人付き合いのマメさは大したもので、まるでこの山の花畑の隅々を飛び回る働き蜂のようである。そして蜜を出来る限り集め回ってそれなりの仕事の成果を出しているので見上げたものだ。雑誌社には用事が無くても「近くへ来たので寄りました」とか言って顔を繋いで、そのうちに口絵やセミナーの依頼をゲットするなど、私には真似の出来ない仕事ぶりである。木原が切り開いた分野の仕事はあちこちに広まっていたのだが、それぞれに新人作家が売込みに来て、競争が自ずと激しいものになっているようだ。いくらオリンパスのお墨付きだとしても、その効力は万能ではないということである。他のメーカーのカメラもあるのだし。
 そのような中で、彼は彼なりに苦労しいてるようで、とにかく「俺はお前に出来ない事をやり、お前は俺にできない事をやる」と、割り切っている彼なのであった。
 
「お前は本物に会うことが出来たのか?俺は未だだよ。今のとこゼロ。お前が言うところの偽物ばっかりだ」
 或る日、唐突にそう言う彼の言葉には、彼らしい極論とはいえ強い確信が込められていた。
「昔お前が言ってたとおりだよ。何でも曖昧のままにして誰もが気楽にやっている、というあの話・・。遊びに行って無駄話をしていると突然仕事の話を持ちかけられるんだ。[仕事くださいっ]なんて言っても全然くれない」
「でも、お前はやっぱり上手く楽しくやってるんだなあ、羨ましいぞ」
「それから、日本カメラに今月もだが最近毎回口絵を飾ってるあの風景写真家、編集長の大学の同輩らしい。この前、階段ですれちがったわ。よく遊びに来るんだってさ」
「ついでに言うと、その彼はカレンダーが毎年決まってるようだけど、印刷会社のデザイナーに同級生が居るんだと・・」
 
 そのような事は、やはり私の想定内であった。ショックでもなく、今さら失望もない。「そのようなものを飛び越えるような作品と、揺るぎない己の個を磨き上げればいいんだ」と、私はただ本当にそう思っているのだ。
 その風景写真家は、そのうちにその紙面から消え、どうしたのだろうかと思ったら、それは、その誌の編集長が変わったからに他ならなかった。その写真が本物であれば、可哀想だが、残念ながら私には何の感傷も起こらなかった。
 

 また、「風景写真」という隔月間のカメラ雑誌があって、そこにも営業をかけて口絵を飾ったりしていた彼は、恒例の年末のレセプションに招かれていて、その会の様子を私に報告してくれていた。私は、その雑誌社には一度も売り込んだことがなく、したがってそのようなものにお呼びが掛かる筈もない(何にしたってお呼びが掛かったら無視をしない礼節は弁えていた私であるのだが)。相棒によると、「お前は関わらない方がいい」「お前が出る所じゃない」「お前が嫌いな世界だよ」、ということだった。そして、小声ながら犬が吠えるには、やはり其処にはそれなりの理由が有る訳だ。
 とりわけ彼が吠えるその先には、或る一人の新人女流カメラマンの写真があった。若くて美人(?)ということで、周りが異常に賑わっていて、会の主役のようだったという。私もその存在は知っていたが、私の眼中には最初から無く、気にならなかった。
 それにしても、その会には数々の出版社や業界人、写真家が大勢来ていて、それは盛大な集まりだということだ。社長は、すっかり写真業界を取り仕切っているような感じになっているという。

「お前が居ないのはおかしいし、ちょっと寂しかったが、俺はお前らしくて良いと思う・・」
「よく解ってくれてるじゃないか。さすが桃太郎に着いて来ただけあるな」
「そうだ。その辺の犬とは訳がちがうんだよ俺は」
「血統種じゃなくて雑種だけどな」
「ちょっと待て。俺は正真正銘の日本犬だぞ。柴犬がルーツだと思うんだけど・・」
「そういえば似てるわ。柴犬に。だんだか犬の顔に見えてきた・・」
 すると、犬の真似をしてリアルに吠えてみせる彼に大いに笑わされる私であった。


 日本の風景写には、昔から「前田信三」の世界と「竹内敏信」の世界が大きく二分して存在していて、その作風の違いは見るからに明確だった。とくに後者は35ミリカメラが主流で誰でも直ぐに真似し易い。というよりも、誰が撮っても同じようになり、彼の写真がつまり限界なのである。竹内は元々ドキュメンタリー写真の出身ということもあり、美術的な絵作りの前田と作風が違うのは当然のことだった。絵として見た場合、違いは明らかで、何時も私には彼の作品は物足りないかぎりであった。

 その雑誌は、元来「前田信三の世界」だけだったのであるが、何時からか竹内の世界も取り込んで、前田信三と同様に、竹内敏信の後継者を探すことになっているということだ。それで白羽の矢が当ったのが、その美人女流風景写真家ということだ。彼女の写真を評価する権利は私にはないが、竹内敏信の写真と変わるところが何も無く、超えてなども決していない。したがって、私の触手には何の反応も起こらないとしか言いようがない。
 彼女は竹内を師匠としているらしいが、彼の弟子は他にも既に大勢世に輩出されており、一気にその筆頭出世頭になったということだろう。美人で写真もそこそこ上手い。誰も文句を付ける余地がないのだ。飛びぬけて優れているのなら美人であろうと何であろうと、一向にかまわないのであるが、そうではないので、犬も吠えるというものだ。
 そして、どちらの作風からしても、私には、最初から其処にしっくりと当て嵌まるものが無いということは、彼に言われるまでもなく、十分に分っていることなのであった。  

 その雑誌では、毎年「前田信三賞」というプロの登竜門だとするコンクールを設けられていて、毎年ほぼ一人ずつ受賞者が輩出されているが、その誰もが最初から食うに困らない境遇の持ち主というのが実態ということだ。そして、何より面白いのは、その作品の作風がどれも同じで、違いが全く分からないという点である。生前誌の看板作家であった御大が逝去した時に設けられた賞で、その後継者を募るのが主旨らしい。
 しかし、長男の前田晃氏が実際の後継者であることは紛れもない事実であって、彼自身「丹渓」の代表になって父と全く同じような写真を撮っている。いうならば、彼が家元である、ということだ。現に彼はその賞の筆頭審査員に収まっている。
 「前真調」という言葉はもう何十年も前から全国のアマチュア風景カメラマンに広まっていて、今更という感が否めない。誰もが同様の写真を容易に撮れてしまって、竹内と同様に、それが限界ということだろう。そのうちに「竹内敏信賞」なるものが設けられるかもしれない。そしてその審査員が誰になるかは自明であろう。
 残念ながら、前田信三は、その作風の草分けとしての価値しかないのが現実なのだ。もちろん、、それが大きいことは確かなのだが。

 そういえば、相棒は、その前田信三にオリンパスの重役の引き合わせで、美瑛で話をしたことがあるのだった。その時の話を色々と聞いたが、一番面白かったのが、酒の場で取り巻きのアマチュアカメラマンたちを前にして彼が切れたことだった。気性が激しいという噂は耳にしていたが、これは本当に興味深かった。
 それは、「写真なんてものは所詮だれが撮っても同じような物になるんだよッ」という話である。その前後の経緯は分からないにしても、言い得て妙にちがいない。そもそも、前田信三自身、そのルーツはアンセルアダムスの自然風景写真であるようで、そのデザイン的な風景の切り取りの亜流の域を脱していないのが現実である。初期の作品がモノクロであったことがそれを物語っている。前田信三は正直なんだなと、その話を聞いて私は思った。


 あの昆虫写真家の栗林慧でさえ、アメリカのスティーブン・ドルトンの実は亜流だったのだ。昆虫の飛翔の瞬間を特殊装置を使った撮影方法で捉えた作品群のことである。栗林が発明したことになっているようだが、その前にドルトンは自分の作品集の中で、その装置のカラクリを写真付きで詳しく説明、発表しているのである。その写真集の和訳版が大分後に日本で出版されたが、それを手にして比べた者は殆ど居ないだろうし、居たとしても、栗林の方が先だと思うかもしれない。しかし、作品と装置を見れば、どちらが本物であるか、それは一目瞭然なのである。彼の存在について、何も触れないまま自慢の装置と作品を紹介する彼を見るに付け、私は幻滅を禁じえないのであった。我が国の日本人の先駆者という類には、このような実例が少なくなくて、何をかいわんやというものである。
 そうすると、あの「光の五線譜」というものも、そうかもしれない。調べると、そのルーツは、どうやらアメリカの自然誌の老舗「オーデュボン」の辺りにあるようだ。

 私が憧れたのは、確かにに前田信三であるが、実は、それは彼が目指した写真のその先の向こうにあるものなのだ。私が三度目の写真展「四季象彩」を開いた時、会場で子息の前田晃氏と会うことができて、その事を話して、「晃さんも父上の先を目指して下さい」と言ったのであるが、何かピンと来ない様子であった。ピンとではなくてカチンと来たのかもしれない。だとしたら、私の話の真意が伝わらなかったか、理解できなかったかのとちらかだろう。同じ年代の同輩として色々と話をしてみたかった私であるが、後継者として売出しの真っ最中でそれどころではない様子であった。それにしても、私の写真をマジマジと見て、しきりに首を傾げている様子が、いたく面白く私には映ったものだ。取り巻きの人と話す声が聞こえてきたが、「これはどうやって撮ってるんだろう?」とか「ピントが行ってるようだがパンフォーカスでもないような?」とかいうものだ。私に訊いてくれればいいのにと思ったのだが、そのまま行ってしまったので、それ切りとなった。彼には一生分らないままかもしれないと思い「してやったり」という感じがしたものだ。絶対に誰にも真似が出来ない作品を作り上げた自負がその写真展の私には確かに有った。技術よりも絵心のセンスの違いでもあるのだし。私は前田信三の先にあるものが何かに挑んで、それに限りなく近づいたと、そのとき思っていたのだ。前田晃を流派の家元のように担ぎ上げている『風景写真』誌に私の出る幕が無いのは、自明の理と思うのだった。
 現に、その写真展でその雑誌社の人と合うこ事は遂に無かった。それは、私がそこへ売り込みや遊びに一度もに来ないのが一つの原因なのかもしれないが・・。


 風景写真に開眼していた私は、何処かに発表したいのは山々だったが、何処にも中々その気が起こらないのであった。一時期、私も私なりに各カメラ雑誌社に盛んに売り込んだのだが、何時ものやり方では、成果は容易く上がるものでなく、何時もその都度「もっと凄い写真を撮らないと」という結論で終わる。そういう時に決まって耳にするのは「遊びに来てくださいよ」という言葉なのであるが、私はそれがたまらなく嫌で、自然に足が逆方向を向いてしまうのであった。

 ペンタックスの或るレセプションの時、重役が私の所へ来て、「藤田さん、ちっとも遊びに来ないんだから、もっと遊びに来てくださいよ」と、もろに言われたことがある。
 私に好意を示して言っているのであろうが、私にはちっとも嬉しいことはなく、思わずその真意を訊ねてしまった。
「色んな所でよく『遊びに来てください』と言われるんですが、その度に僕はその意味が分からなくて困るんですよ。遊びに行くほどの余裕が無いですし。遊びでやっている訳でもないし。とにかくそんな身分じゃないもので。いまいち意味が分らないんです・・どういう意味なんでしょう・・?」
 そう言うと、その重役は驚いたように目をまん丸にして、慌てふためいたような仕草をして思わぬ返答をした。
「いや、その、それは、つまり、その、あの、人、人となり、人となりが知りたいですから。それはやっぱり・・その・・」
 少しビールが回って赤い顔をしていたからかもしれないが、それは彼の本音に違いなかった。それは、正に百点満点の回答であった。
 そして私は、それに対して更なる本音を彼から引き出したくなった。
「やっぱりそうですか。『人となり』ですか。それが成ってなかったら、いくら写真が優れてても始まりませんからね。だけど、僕が知りたいのは、どんな『人となり』が求められるかなんですよね。どんな『人となり』なんでしょう・・?」
 私は、きわめて冷静に自然な疑問を投げかけたのに、彼の顔は真っ赤になって更に動揺した様子になった。
「つまり、それは、その、あの、つまり、・・ああ、もう勘弁してください。私には分りませんっ・・」
 そう言って、吉備津を返すようにして私から逃げるように立ち去る彼の後姿を、私は暫し呆然と眺めていた。
 「終わったかもしれないな・・」とそのとき思ったが、「仕方ないなっ」とも私は思った。
 しかし、これで私の『人となり』を知ってもらえて本望だった。私の本物の相手かどうかが分るからに違いない。
 そして、それ以来、彼が私の前に現れることが二度と無かったのは言うまでもない。


  「彼らは甘い」と言って「N.P.S」を出た木原和人であるのは確かなのだが、もしかしたら追い出されたのかもしれない。その真意を確かめることは遂に出来なかったが、彼の『人となり』は、けっしてこの(日本の)業界の人間に好まれるものでなかったことは、やはり容易に想像できる。この山には彼の足跡があちこちに残っていて、私はそれを辿っているに違いなかった。なんと、彼は秋山庄太郎にも会っていて、自分の写真の評価を求めたのだという。話では、その時、良い写真だと言われて励まされたということだ。彼は、間違いなくこの世界の隅々を独りで彷徨っていたのだ。彼がたった一人で何と戦っていたのかを想うと、胸が痛くなる。彼は本物の相手に恵まれたのだろうかと思ったりすると・・・。
 相棒は、ポスト木原和人の名にたがわず、彼を世に出したという人物を紹介されて、その人と親交を日夜深めているのであった。家に呼ばれて泊り込んだり、一緒に撮影に出かけたり、呑んだり食ったりと。そして日本カメラとその増刊号等に何回も採用されて、挙句に待望の写真集を同社から出版されるに到った。それは正に木原和人が最初に辿った道そのものに違いなかった。結果を見れば随分楽しい毎日で良かったように伺えるし、本人も社交は得意とするものなので、その筈なのだが、或る日、「あんな付き合いは二度と出来ないし、もうしたくはないな」と彼は私に吐露するのであった。
 話すと長くなるので割愛するが、時々付き合いに疲れて帰って、その都度、彼は私に悩みを打ち明けるのであった。その度に私は彼を励まして、前向きに考えるように諭し、なんとか気を取り戻すよう付合いを促したものだ。
 とは言うものの、現在の彼は、既に業界をもう退職したその人と、釣りに行ったり、呑みに行ったりと、時折り今も親交を続けているようなのだから面白い。



 「PPS通信社」の日本の看板作家が水越武と聞いて、私は直感的に不安を感じたので、それを払拭したかった。

「水越さんや他の作家のコーナーに入れてもらうのは光栄で有り難いんですが、僕が入った場合、やっぱりその順位は一番後ろになるんですかね?」
「いいえ、そのようなことはございません。作家の皆さんはそれぞれに何時も一列で平等ですよ。心配ないです。大丈夫です」
「順位が無いのですか?」
「順位などおりません。皆さん同じラインで並んでいますよ」
「本当ですか?看板作家というのはつまり順位の一番だと思ったのですが・・」
「それは順位ということではありません」
「順位は有った方が良いのでは?低ければ順位が上がるように努力しますから。年功序列なんでしょうか?」
「まさか、そんなこともございません」
「本当ですか?絶対に?」
「本当です。絶対です」
「だったら、それは素晴らしいですね。なんだか楽しみになってきましたよ」
「作家コーナーに入れて、うちの即戦力として扱いますから。作家さんには、とりあえず企業カレンダーで活躍してもらいたいと思っています。藤田さんの作品はカレンダー向きだと思います。中々簡単には決まらない物ですが、うちは毎年成績いいですよ。お見せしましょう」

 彼女はテーブルの上に一つのファイルブックを開いて自慢げにそれを私に見せるのだった。それには、カラーで縮小印刷された幾つかの企業カレンダーが並んで掲載されていて、年号別に綺麗にファイリングされており確かに壮観だった。
ゆっくりと見たかったのだが、直ぐに仕舞われてしまい、どうも一人の作家が同年に幾つか有るようには見えなかった。
 

 企業カレンダーは、やはりこの世界では花形の仕事のようで、生態係の自然写真家にとっても憧れの的の様である。
 彼らは皆 「キレイキレイ写真」を蔑んでいても、カレンダーに使われることをその実その裏で密かに何時も待ち望んでいる訳である。「カレンダーなんて興味ない」と言っていると、そのうちにその役目が回って来るという現実を知っているようだ。私が最初からカレンダーを目指して、決まったりしているのを知って、彼らは口を揃えて影で揶揄しているのであった。「藤田さんしカレンダーが決まって天狗になっている」と言う人も少なくないようだ。

 相棒の情報は非常に細かく、いたって正確なのである。ペンタックスフォーラムの当時の副所長の保坂さんは、何時も大変愛想よく良い人なのだが、私のことを「ヘビーで付き合い難い人」と決め付けているらしい。相棒からそれを知らされたとき、私は特別に驚くことはなく、「俺が重たいんじゃなくて、彼らが軽いのさ。当然の話だなそれは」と言って返したものだった。「やっぱりお前はそう言うと思ったよ」と言う彼と大いに笑い合ったのを覚えている。


 決して軽いことない私は、果たしてこのエージェント、とりわけこの女の担当者に気に入ってもらえるかのだろうか・・。
「僕の作品が貴社の企業カレンダーの即戦力になるということでしょうか?」
「そういうことです」
「大いに使っていただいてお役に立てれば何よりです」
「私としては契約したいと思いますが、社の稟議が必要ですから、今日のところはこの辺で・・」
「それはそうですね。社長さんにも見てもらわないといけませんからね」
「社長はきっとこの写真を気に入ると思いますよ」
「そう言って頂くと有り難いです。僕も前向きに考えたいと思います」
 そうして綺麗な企業案内のパンフレットを一冊もらって帰ったのであった。見れば見るほどこのエージェントの企業理念は素晴らしいもので、社長がユタや系のアメリカ人ということもあり、期待が膨らんでしまうのだった。

 その女の担当者も、もしかしたら日本人離れしていて、私の発した重い言葉も嫌うどころか好感を持ってくれたのかもしれないと思うのだった。私は悲観論者である一方で、その実天性の楽天家にちがいないのであった。上手いこと精神のバランスが取れていて、悲観論を思い切り展開できていた。そして、それを打ち破るために何をするべきで、何を諦めるべきかということを、何時どんな時にも考えられているのであった。
 
 そして、間もなく私から電話をして契約可能かどうか窺って、契約のために心地いい緊張感を携えて再び銀座の会社を訪れた。
「これがうちの契約書になります。よくお読みになって、よろしければ下のところに署名と捺印をして下さい」
 話は前回に十分してあるので、話は速かった。しかし何か物足りない気がしたのも確かだった。

「社長さんは何とおっしゃられてましたか?」
「契約しなさいと・・」
「それだけですか?」
「それ以上なにか・・?」
「いえ、十分です。すみません」
 なんだか噛み合わないものが其処に有ったが、特別に悲観視はしなかった。
 しかし、最初が肝心だと思い、私はあの禁句を思い切って言おうと思った。その契約書は、少しもアメリカ的でなく、あの時のそれと何も変わり映えしないきわめて日本的で曖昧にものであったからである。

「売れたら売れたとき、売れなかったらそれまでのこと。そういう事ですね」
「そういう事になりますが、売れるように営業担当が頑張りますから」
「独占契約ではないんですね」
「うちだけにして頂ければやり易くて、それは有り難いのですが」
「そうしたいのですが、そうするとして、何か保障的なものは無いものですか?」
「そういうのは特に無いですが、そうして頂ければやり易いという話です」
「やり易いのなら、そうしますよ。独占契約の契約書が別に有るという事でしょうか?」
「いえ、それは特に有りません。出来ればそうして頂きたいということですから」 
「出来ればそうしたいのですが、それにはやはりリスクが伴いますから、悩みます。 以前、完全独占契約をして結局年収5万円という目も当てられない経験が有って、痛い目に会っていますので、怖いんですよ。一年どんな営業をして、どんな結果だったのかさえ分らないままで、本当に悩んで困ったものだったので、コリゴリなんです。そのへん大丈夫なんですか?僕がこの世で一番嫌いなのは曖昧なんです。曖昧。少なくても仕事においては・・」
 私が一気にそう言うと、彼女は冷静ながらやはり驚いた様子が見てとれた。あの時の甥子の反応とは違っていたが、大人の女が何を考えているかは、容易に分かるものではないと思った。曖昧返事は得意に違いないのであった。彼女は、いたって冷静な微笑みを私に見せるだけだった。

「ふふふ、面白い事をおっしゃいますね。私としては理解できて、そのような取り計らいをしたいと思うのですが、そのような前例が今まで無いですし、生活丸抱えということになってしまいますので、会社として それは残念ながら今は無理だと思います」
「今は無理と言うことですか・・。それなら何時の日かそうなると良いですね。そのような要望が有ったことを社長さんに伝えておいて下さい。そのうち、でいいてすから」
「分かりました。そうします。それで良ければサインと印鑑を・・」
「他に預けるほどの量が無いですし、いいましたとおり私は営業に疲れたのです。貴社に全てを預けることにします。独占の方がやり易いのなら、お互いにそれが良いと思います。保障はとりあえず無しということで仕方ないです」
「・・・・・」
 彼女は微笑みを見せているが、無言であった。私はこれが限界だと思って契約書に快くサインを記すのであった。
 言う事は言ったので悔いは無い。これで始まらないのなら此処が本物の相手でないことが分かるだけのことだと思うのであった。しかし、そこには思わぬオマケが付いていて、私の不安が少しほぐれた。

「ちょっと待って下さい。カタログの担当者を呼びますから」
「カタログですか、そういえば、そういうものが有るみたいですね。忘れていました」
「今ちょうど次のカタログの編集末期になっていて、ギリギリ間に合うところなんです。これがうちのカタログたちです」
 そう言って彼女が持って来たカタログは分厚くて大そう立派なものだった。

 そして、担当者が直ぐに来て、私の持参した作品をざっと見て、何点かピックアップして行った。
「これで間に合います。なるべく多く載せたいと思います」
「有難うございます。宜しくお願い致します」
 

 写真界には、その頃カタログカメラマンなるプロの存在があり、ライブラリーもそれによる収益が殆どになっているという事は私も知っていて、流行に合った売れ筋写真を「如何に上手く多く撮るか、如何にその良いページに、如何に多数、如何に多くのカタログに載せてもらえるか」を競っていることだ。
 そして、何冊かのカタログに売れ筋の優れた写真を掲載されたことで大儲けをして外車を乗り回しているカメラマンが居るという噂も聞いていた。そして、元来フリーのライブラリーカメラマンは昔から居て、その道の選択肢も確かにあった。しかし私たちは、名古屋のあのライブラリーを訪れた時に、既にその世界から足を反対方向に向け、手作りの船に帆を張ることにしたのであった。
 私たち、は二人とも「写真で如何に儲けるか」という考えは最初から頭の中に無くて、自分の写真の可能性を信じ、オリジナリティを追及する自然写真家を目指すことにした訳である。相棒は木原和人、私は前田信三、それが二人の憧れるビジネスモデルに違いなかった。

 そして、目指す山には、生きるに困らい色々なな果実が確かに有って、つまり、自然写真の使い道が世の中には無数に有って、その頂点が企業カレンダーに違いなかった。さまざまな雑誌や本類の口絵や挿絵や表紙の連載もある。コマーシャルの各種媒体など、社会には写真が無数に使われていて、良い写真を撮って良いところに使ってもらえばいいと思うのだった。そして写真が良ければ、結果は自ずと着いて来る。それでいい。そういうものだと思うのだった。

それらの各種写真の供給は、フォトライブラリーに所蔵される大量の写真素材で賄われていて、そのライブラリー自体が多数出現していて素材も会社も成長期を越えた時点で飽和状態となっている。そしてカタログ配布の時代になって、そこに載せられた特定のカメラマンが偏った収入を得るという時代になるのであった。
 或る日、相棒が、ライブラリーカメラマンに紛れてとある大集会に参加することがあって、そこではライブラリーが来年度の流行、売れ筋写真の発表が有って、作風の見本を載せたパンフレットが配られていた。「皆さん頑張って撮影して下さい」ということである。毎年そのような懇親会が盛大に催されているようなのだ。相棒は「場違いだった」と言って笑っていたのだが、私にはそう笑って済ますのには抵抗があった。
 それに参加しているカメラマンは百人以上のようで、中には特別に売れて優待されている清栄も居ることだろう。預けても売り上げが少なくて困っているプロ。思わぬ収入に喜んでいるセミプロ、アマチュアも居るようだ。

 そもそも、ライブラリーは、「社カメ」と呼ばれる給料制の専属カメラマン(名古屋で誘われたような)が居て、更にストック写真を増やすために不特定多数のカメラマンから写真を預かることにして、際限なく集めたため、プロとアマチュアの境界を分からなくしてしまった訳であり、そこには大きな過ちがあると思うのだ。
 写真素材が飽和状態となって、社カメは解雇され、ライブラリーカメラマンも使用頻度(収入)が激減し、ライブラリー自体も淘汰され、大手だけが盛況になる。箱の中で増える鼠の末路を見るようだ。

 そして、大小無数に発生してそれぞれに盛況だった時代は去って、その後、写真のデジタル化と価格破壊の時代になって、大も小もそれに対応できないライブラリーは全て消え、現在に至っては、いち早く資本投入してシステム開発をした企業に吸収されることになった。今はアマナイメージズとアフロという二社が殆ど独占状態となっている。
 そして、不特定多数のカメラマンから作品を公募して預かるという慣例は継続しており、プロとアマの境界線は、デジタルカメラの普及によって、益々希薄になり、全く無くなってしまったと言っても過言ではない。
 そして、それらのライブラリーが求めるものは、変わることなく、あくまでも流行の売れ筋写真の優れた作品なのであり、優れた作品とは、つまり、デザイナーが素材として使い易い作品のことである。トリミングの余地が無い物などは持っての他だ。
 作家が自分の作品としてオリジナルの芸術性を求めて作った作品は、素材として使い難い訳であり、そのような作品はストックフォトの商品としてラインナップし難いに決まっているのだ。現に、そのような作家作品の販売には興味が無いようで、どこを探しても、作家単位のコーナーなどは未だに無いのが実態である。一時期は作家のカレンダー原稿に高額が付くので扱う余地が有った訳だが、それが無くなり、元々ライブラリーは、一律安価で大量の企業カレンダーに素材を提供していて、それ以上に大量のプレゼンテーション使用代金だけでも潤っていたのだから仕方ない。
 やはり、私が求めるのは、最初も今も「ライブラリー」ではなく「エージェント」であることは変わりがないのだ。


 私は、当初、自分がこれから登る山を見定めるために、書店で様々な本や雑誌を見て回り、何処にどんな写真が使われていてるかを調べたものだ。
 そして、その結果、私の目にとまったのが唯一、前田信三であり、木原和人なのだった。あんな写真が撮りたい。あんな作家になりたい。そしてもっと良い写真が撮れる筈だ。写真の価値はもっと凄いものである筈だ。という調子であった。
 私と相棒は、最初の最初に好んでライブラリーカメラマンとは違う道を進むことになり、それは山の頂を目指す険しい登山道に違いなかった。彼らが如何に大儲けをしているとしても、それは決して憧れにはならず、山の頂にも見えないのであった。二人とも同様に、カタログ等の写真を見ても、、何の刺激も啓発も受けないのであった。(カメラ雑誌や写真集を見るときも同じだが)。それどころか、何故か、揃って眠気を催して欠伸が出る始末であった。人間の生理というのは面白いものだ。
 この山は、私たちにの眼に、もっと崇高で美しいものに映っていたのだ。
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