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②相棒

「昨日、ちょうど俺は近くの山へ行って、タンポポとテントウムシの写真撮ってて、木原を思い出してたんだよ。あの野郎、今に見てろよ、目に物見せてやるからなっ・・て。それこそ虫の知らせってやつだったんかなあ・・・」
 
 一足早く上京して写真家としてプロデビューを果たした私に、置いて行かれる形となった相棒は、その日の夜私から電話で木原和人の訃報を知らされ、そう言って感慨深げに言葉を吐いたあと、暫くの間黙り込んだ。
 そこには、彼の決して一言では表せない特別な感情というものが見て取れて、その沈黙を、私は暫くの間絶つことができないでいた。

「そうか、本当だな。そういうことだよ。木原和人はお前にとって特別な存在だったからなあ。俺もショックだったけど、お前の方がもっとショックだろうな、そりゃあ・・」

 彼は、私に一足先を越された形だが、現在、私と同じように東京の写真ギャラリーでプロデビューの準備をしていて、その審査待ちをしているところだった。時間差にしたら、ちょうど半年くらいで、私は、よくもまあ喰らい付いてくるものだなあと、関心していた。
 私はペンタックス。彼はオリンパスだった。同じように、プロとして出発するための写真展を開くための審査を正式に申し込んで、大人しく待っているところなのだった。そして木原和人への心酔は意味は違えど私よりもずっと大きいものだった。
 
「お前がペンタックスだったら、俺はオリンパスで行く」そう言って始まった二人のプロデビュー競争であった。お互いに何のコネがあるわけでもなく、何のツテも無いまま「写真で勝負だっ」とばかりに日々田舎で武者修行、切磋琢磨の日々なのだった。
 
 田舎といっても、そこは名古屋で、文化的に閉鎖されたようなところがあるが、けっして息苦しくはなく、それ故の静けさは、黙々と自分を作り上げるには非常に良い環境であった。
 足助町とか、奥三河の自然が近く、ちょっとした自然写真が直ぐに撮りに行ける。とくに段戸裏山などという奥地は写財が豊富で、四季を通して数え切れないほど足を運んだものだった。 私は、たしかに間違いなく、その場所で自然写真におけるオリジナリティを開眼したと言っても過言ではない。

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「留年するとは思ってなかった。俺たちどうなるんだろ」
「俺もだよ。まったく分からん。どうなるんだろうな」
「落ちこぼれのレッテル貼られちゃったな・・」
「これは、もしかしたら、自然の成り行きかもな。なるようにしてなった。二流の大学から落ちこぼれたんだから、俺たちは二流じゃないということになる。そういうことだ」
「三流ってことか」
「ちがうよ。それ以外。いや、じつはそれ以上、規格外ということかもな」
「ほう・・」

 そんな会話をして、特別に確信した理由もないまま、落ち込む友を慰めた記憶がよみがえる。もちろん、それは、自分自信に対する慰めであったのも確かであろう。
 彼が、私の[相棒」になったのは、大学の2年の時に一緒に留年をしたのがきっかけだった。同じ学科の同級で顔は知っていたが一度も話をした事は無く、お互いに違うタイプだと思って、関心が全く無いままだった。
 留年して最初の授業に出た時に、初めて会話を交わしたが、その印象は思っていたものとは大いに違っていて、何故か心を許して何でも自然に語り合えることに驚いたものだった。
 かつての学園ドラマに出ていた柳沢真吾に顔も雰囲気も似ていて、何やら騒がしい。「なんて軽薄な奴なんだ。少しは静かにできないのかよ」と、他人事のように遠巻きに思ったものだ。
 彼の方も、それは同じで、「とっつきにくい奴だな。いつも独りで静かにしていて、何を二枚目ぶっているんだよ」ということだったようだ。けっしてそんな意識などはなかったが、柳沢真吾のような三枚目のタイプではないことは確かであった。
 
 「お前って案外、色々と落ち着いて喋れるんだな。見間違えていたよ。いつも大勢の中でふざけてはしゃいでばかりいて、何も悩みがなくて、羨ましい奴だなあと思ってた」
「ああ、あれは本当の俺なんかじゃない。いくらはしゃいでも空しいものだった」
「へ~え。面白いこと言ってくれるなあ。本当の自分だとかなんとか。ほんと意外だわ」

 私が、彼の意外な一面があるのを知ったのは、思えばこの時だけの事ではなかった。
何時も徒党を組み集ってはしゃぎ合っている割に、マージャンに誘われたり、ボーリングに誘われると、何時も断わって一人で帰って行く姿を何度か見ていて、「あれ?」と思ったことがあったのだ。その事を何気なく話してみたら、それは決定的になった。

「あいつらと遊んでいても空しいんだよな。楽しいことは楽しいんだけど。何か違うんだよ。何だかよく分かんないんだけど・・。ためにならないというか、何というか・・。あいつら、要領いいし、どこかちょっと・・」

 あいつら、といっても、べつに不良や遊び人などではなくて、それは、成績がクラストップの優秀な人物を中心とした取り巻きの一団で、それは極めて健全に学園生活を謳歌しているようだ。
 工業大学の工学部なので、女子学生は殆んど居らず、建築課などに数人が居るだけで、この科はゼロだ。男同士で気楽に楽しくやっている。時々、合コンの話が極たまにあったりするが、少なくても学園内に女ッ気というものは皆無だ。
 私はというと、そんな学園環境が気に入っていて、郊外の丘陵の中にあることもあり、この上のない静けさというものが、大好きなのである。大学は遊ぶ所ではなく、学問を極めて自分を磨く所なんだと、本気でそう思っていたのだ。いうならば、自分探しで、真剣に「本当の自分」を探そうとしていた。ただし、通学途中に見かける近くの女子大の可愛い子に、いつか告白しようと密かに心に決めたりしていたことはあるのだが・・。
 彼らが講義を受ける席は、何時も最前列で、教授と仲良くなって、小声で試験に出るところを教えてもらっているそうだ。それを知っていて、試験の前になると、そこから情報を仕入れるために、お近づきになる学生は少なくなくて、私なんかも、中の気の良い奴と通じたりしていて、その最小限のおこぼれを授かり大いに助かっていた。

「お前は、あいつらの情報が欲しくて、いつも近付いてたんだな。チャッカリしてるな」
「いや、べつにそんなことでもないんだけどな・・。たしかに試験の時には助かったけど」
「そんなお前が、なんでまた留年しちゃったのかねえ。上手くやってたんじゃないのか?」
「いや、だから、そんなにはベッタリじゃなかったんだってば」
「情報不足だったな。まったくもって。油断しちまった。てか、なんかそういうのに飽きた。試験問題なんて、教科書や授業の書取りの中でどこら辺が出るかが分かって、そこんところを全部丸暗記すれば満点が取れて、どれだけ情報を掴んで、どれだけ覚え切れば、どれだけ点数が取れるか・・そういうことだろ?」
「確かにな。日本の試験は、何でもペーパーテストの点が成績評価の8割を占めて、大学もその例外じゃないと。欧米はその間逆だとか、この前読んだ本にも出てたよ」

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 私は、その頃、世間で「日本人論」が世間でブームになっていたこともあって、その手の書籍を知らぬ間に読み漁るようになり、よく出てくる「日本的」という言葉に強く興味を引かれていたのだ。とりわけ、その功罪についての論評には目がなくて、中でも、「日本人に生まれて損か得か」なる署名の新書は面白すぎて、今も書棚に残っているほどだ。ドイツ人と日本人のジャーナリストが対話形式で日本論ブームを総括的に綴る、その手の中でぱ究極的なものと確信している。
 大学の経営学の教科書に「日本的経営」という一項目があって、私は、その時「日本的とは何かという素朴な疑問に囚われたのだった。ほんの数ページの記述しかなく、私は書店や図書館でその学問の書物を読み漁り、卒論も「文化人類的アプローチによる日本的経営の源流とその本質について」などというものになった。

私の大学は、「愛知工業大学」という名古屋の郊外にある私立の中堅校で、今は偏差値が上がったとか聞いているが、当時はそれほどでもなく、特に私の入った「経営工学科」は、志願者が少なくて倍率も一番低かった。
 私は公立の工業高校機械課の出身で、大学進学は頭に無かったのであるが、卒業間近になって、急に「就職」が怖くなり、親になんとか一年浪人を許してもらって、念願の大学に入ったのである。
 そして、念願というには、それなりの意味があった。高校三年の時の教科書に「経営工学」という項目があり、それは、主に生産工場における効率を学ぶ、生産管理や、人事管理、人間工学など、そこで働く従業員の人的管理についての学問で、強く興味を魅かれた。いわゆる知識欲というものが一気に芽生えて、このまま就職ではなんとも居た堪れない状況に陥ったのである。その頃の社会で「就職」という言葉は今よりずっとそれは重く響くものだった。
 父は基本的に出世欲がない人で、私に対してもそれは同じく何時しか受験戦争から逃れることになっていた。しかし私の懇願に「仕方ないな」と一言言って、一年だけ浪人を許してくれた。進学なら、成績がそこそこだったので、或る私立の工業大学へ推薦入学ができたのであるが、そこには肝心の「経営工学科」が無く、それが有るこの大学へと道を進めた訳だ。この学科は全国でも珍しく、公立私立を合わせても数校しかなく、それがどこも難関校で、地元に入れそうな倍率の大学があることに選択の余地は無いのであった。
 今は、付属の「愛工大名電」という高校が高校野球で有名で、イチローの出身高校としても名が高い。相棒は、正にその高校の出身で、エスカレーターで入って来たのだが、何故か私と同じように一浪している。他の大学に行きたくて受験したのだが落ちてしまい仕方なく、上の大学の一番倍率の低い科に押し込まれたということである。この経営工学科が如何なる学科であるかなど、まったく知ったものではないということだ。

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「俺に写真を教えてくれないか。俺、趣味が無いから、何かやりたくて。なあ、いいだろ? 教えてくれよ。授業料、月に千円出すからさあ。いいだろ。なあ・・」
「千円だと?十年早いわ。いや、金額の問題じゃない。俺は、じつは遊びでやってる訳でもないんだよ。真剣に取組んでるんだ。写真というものの芸術としての可能性というか何というか・・俺自身の可能性もなんだけど・・なんというか・・」
「お前は、やっぱりプロの写真家を目指してるのか」
「いや、そうでもない。と言ったら嘘になるか・・そう簡単になれるものじゃないようだし・・。とにかく今は、写真の可能性について追求してるところなんだ。だから・・お前に教えてる暇なんか無いし、余裕も無い」
「へえ~。おもしれえ。なんだか俺も写真家なりたくなっちゃった」
「バカを言え。軽々しいにも程がある。そんなノリでなられたら困るっ!」
「分からんぞ・・あんがい才能有ったりしてな。俺、子供のとき絵を描くのが得意だったから」
「へえ、それは知らなかったな。本当かよ」
「本当さ。もしかしたら、お前よりも才能あるかも知れんぞ俺。マジで。ほんと」

 もしかしたら彼の才能は本当に凄いかもしれない、じつはその時私はそう思ったのも確かであった。それは一年の何かの講義の時だった。
「ここに一片のレンガがある。これをどのようにしてもいいから考えられる利用法を思い付くだけ書き出すように」という教授の出題に彼は驚くべき回答を出して、教授を驚嘆させたことがあるのだ。「こんな大量の利用法を見たのは初めてだ」と誉められたのだが、「まだまだ有りますよ。書き切れなかったですからね」とは私もたいそう驚いたものだ。現実的な私の答とは違い、その発想は飛び抜けたものだった。煉瓦を切ったり砕いたり、磨り潰して塗料にしたり等々、とにかくまるで無限台の如くの回答である。
 それに対して教授は「はははっ」と笑い、教室にも笑いが広まった。しかし、私は実は笑わなかった。いや、笑えなかったのだ。それは、「この教授は彼の才能に気付いたのだろうか。気付いたとして笑って澄ますのか」・・と、他人事ながらそんな心配が私の頭を過ぎったからだ。そして、それはやはり空しい笑いに他ならなかった。
 「おちこぼれ」・・それは、何時何処に於いても、極めて日常的にそのようにして生まれているのかもしれない。

「じゃあ、やってみるといい。面白いじゃないか」
「やるやるっ。これは面白くなってきた。やったぜベイビーッ!」

 大学四年の春の長閑な昼下がりの教室で交わした、そんな無邪気な会話が、今、懐かしく思い出される。
 その時、それが、二人揃って将来プロの自然写真家を目指す真剣でドタバタな冒険珍道中の始まりになるなどとは、まさか誰も思ってなどいなかったのは、言うまでもない。
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