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⑯三回目の写真展

「藤田さん、とうとう御自分の世界を作り上げましたね。おめでとう」
「有難うございます。牛島さんにそう言って頂ければもう何よりです」

 「四季象彩」と題して満を持して開催した三回目の写真展の会場で、中盤にふらりと訪れた銀髪の紳士が私に近づいてきて落ち着いた声でそう言った。それがけっして社交辞令ではないことに気付いて私の心はそのとき晴れた。純文学的な表現をすれば、・・私の心の空の地平にそのとき一条の虹が架かった・・といったところだ。

 彼は日本カメラの編集部の重鎮で、その風貌も相まってカメラマンなら誰もが恐れおののくほどの一目置かれた存在だった。私は一度ある会場で名刺交換をしたことがあったが、写真については初めての会話であった。
 彼こそは、木原和人を世に送り出した張本人で、ポスト木原である相棒がお世話になっている本人でもあった。そして既に相棒は木原と同様の写真集を同社から出版してもらっていて、これまた私をぴったりと追随して来ているのであった。

 相棒と私の関係は業界で知れ渡っていて、彼もその例外ではなかった。というよりも、その親密度から誰よりも詳しいのは自明であった。そして私が新しい風景写真を作り上げてその発表を準備している事を知っているのであった。
 それにしても相棒はなんという所へ潜り込んでいることか。そういえば、その存在を恐れられる牛島氏は、作家の五木寛之に似ているが、思えば同時に「鬼が島」の鬼に似ているではないか。私が桃太郎だとしたら、やはり相棒は犬なのであった。いや、空を軽快にに飛び回るキジ、時におどけ者のサルでもあった。
 

 私は、この写真展に或る特別の意味を込めていて、レセプションを開くことはしていなかった。その代わり、開催中は会場に勤めて居るようにして、写真展の反応を隅々において直接感じ取るようにしているのであった。
 この世界では「写真展の批評」というものは何処にも示されるものが無く、有るとして、もそれは当たり障りのないものや、社交辞令の建前、宣伝上の謳い文句でしかないのが現実だからだ。
 
 レセプションを開くにも私にはマネジメント会社などバックボーンが何も無く、人脈的な力も持ち合わせていない。ペンタックスから打診があったが、決して能動的でなく、私はそれを遠慮する形で自然に断わった。強い要望があったなら断わる理由も無かっただろうが、そうでもないので、やはりそれが相応しかった。
 渋谷での個展の経験からも、それに対して期待を持ち難くなっていたのも確かではあるが、それは極めて自然な成り行きなのだった。


「これは全部本当に写真なんですか?・・私は今、東山魁夷さんの絵画展の帰りにここを通りかかって入ったんですが、先生の絵に大変似てて驚いてるんです」

 個展の初盤、佐々木さんに作者の私を紹介されて、そう言ったのは、小柄で白髪の品が良い老婦人だった。本当に通りすがっただけの一般客の人だった。

「私はこんな風景写真を見たことがありません。何か特別な技法をお持ちなんですか?」
「いいえ。何も特別なことはしていませんよ。普通に自然光で自然を撮ってるだけです。ただ絵としての完成度を求めているだけのことです・・」
「絵としての・・ですか・・なるほどねぇ。へぇぇ・・」

 感心したような顔をしてそう言うと、その老婦人は改めて会場の写真を見て回り、一つの作品の前で立ち止まり私を呼んだ。、
「これ先生の絵にそっくり・・」
「そうですね。じつは僕もそう思っていますよ。結果的にそうなったんですが・・」

 それは「湖水静寂」というタイトルを付した北海道のオンネトーの森と湖の写真で、確かに私のこの時の代表的作品に違いなかった。私は「してやったり」と心で呟いていた。
「先生の絵には白馬がいますが、これにはいません。それが絵と写真の違いなんですよね。僕は写真で自然の在りのままの美を表現したいんです。その美の本当の意味を・・・写真にはその力があるんです」
「へぇぇ・・・」
「言ってしまえば、写真には絵よりも強い表現力や価値が実は有ると思っているんです。作り物じゃない、真実以外の何物でもないという意味です」
「・・・・」
「写真のような絵は時々ありますが、絵のような写真って余り無いですよね。絵としての写真の価値を求めてるんです」
「・・なんだか素晴らしいことのようですね。この写真を頂きたいですが、お幾らかしら・・」
「あ、有難うございます。サイズによって値段が違っていますので・・」

 通りがかった佐々木さんがそれに気付いて、婦人に対応してくれて、彼女は四つ切の額装写真を購入してくれた。そして私はマットの隅にに小さくサインを施して御礼を言うと、大そう有り難がって握手して御辞儀を深々とした。
「今日は偶然ですが、たいへん良い物を見せて頂きました。有難う御座います。これからも頑張って下さい」
「こちらこそ有難う御座います。お陰さまで頑張ることが出来そうです」

 私は、この老婦人の言葉によって全てが報われた気持ちになった。これで目的の一つを遂げたと言っても過言ではないと思った。もしかしたら、牛島氏の言葉よりも嬉しかったかもしれない。

 佐々木さんと私が並んで彼女を出口で丁寧に彼女を見送ると、彼は私の肩をポンと叩いた。
「やったじゃんっ。写真売れたねっ」
「そうですね。第一号です。幸先いいかも・・」
「それが目的じゃないけど、売れるといいねっ」

 会場の一角にはサイズ毎の作品の頒布価格の掲載か゜あるが、まあそれは決して目立たない。はっきり言って全く売る気がないように見える。そして実際にそのとおりだった。
 大半切のビッグサイズの作品(あの竜頭の滝の花の風景写真だ)が展示されていて、それを新築祝いに欲しいという客が現れたのであるが、そのとき代金が足りずに「また改めて来ます」ということだったが、遂に来なかった。
 その時、佐々木さんは「やっぱり来なかったねー。大体ああいうのは来ないもんだよ」と言って面白げに笑うのだったが、私はちっとも面白くはない。予約を取らせなかったのが悔やまれたからだ。
「わかったわかった。今度から気を付けるよ。予約予約と・・」
佐々木さんと私の距離は、また一つ遠退いたかもしれないと、そのとき思った。
 そして、このギャラリーについて、疑問符が私の中で一つ灯った。

 私がこの写真展に込めた思いは只事ではないのであった。「本物とは何か」それを知ること。「この国は本物が出難い社会というのは本当か」そして「それは何故」・・それを知るために私は此処に居る。その思いに一区切りを付けたいのだった。
 それには先ず、私のこの写真が本物か否か、それを確かめる必要がある。それは、何の人間関係や利害関係などがない純粋な評価、建前ではない正直な本心からの本音の感想を聞き届けることである。
 何かの伝手や関係で人を集めて宣伝して、果たしてそれが得られるだろうか。好評を得てもそれが真の評価と言えるだろうか。・・真の評価、真に本物か否か、私はそれが知りたいのであった。

 「日本人に生まれて損か得か」・・あの本の答を実際に体感する場面はこれまでに幾度かあって想定内だったが、やはそれは決して嬉しいものではない。真実やハッキリとした物を求めずして何が本物か・・。皆で気楽にやっていてどれだけの本物が出来ようか・・。そんな私の若い反発心からこの旅は始まったのであるが、まさか孤軍奮闘、他に誰も同じ道を行く者が何処にも居ない(もしくは出会わない)とは思わなかった。私と同じ若い世代なら話は別だと思ったが、どうやらそうではないようだ。・・それは、じつは私の想定外に他ならなかった。そして、その理由を解く必要があった。

 しかし、私は決して融通の利かない気が難しい堅物ではない。苦労も嫌いだ。私は基本的に楽天主義であり、それ故にこそやれているとも言える。その事はやはり相棒が証明してくれるだろう。そうでなければ私とこれほど長く付き合っていないであろう。彼の存在は、私の旅には最初は想定外であった。しかし何の因果か彼は私に着いて来て、まるで無くてはならない相棒のようになった。そして、唯一無二の友として私の心の支えに確かになっていた。
 「本物はお前だけだよ」・・何時も何気なくそう言う彼の呟きは、何より私の励みになった。「本物は疲れるから俺には無理だ。疲れないお前が羨ましいよ」・・私はそれを否定せず、二人は別の道を歩んでいたが、根底の価値感は共通していた。二人とも若かったのだ。

 私のこの個展は、想定どおり、思いのとおり、大変静かなものになった。その時私は、何処のライブラリーにも団体にも所属しておらず、唯一ペンタックスで「プロ登録」をしているだけだった。とは言っても何の証明書もアイデンティティも得られるものでなく、その意味は曖昧の極みであった。僅かな心の支えとプライドの足しにはなったが、無形であるのが居た堪れない。
 あの保坂氏がそのIDカードを発行しようとしていたが、急病で急逝したことでそのままそれは無くなった。最初に伝えた私の不満を彼はちゃんと受け止めて密かに何とかしようとしていた事に驚かされたものだ。彼のどこか憎めないお調子者の人物像が懐かしく思い出される。彼は間違いなく良い人だった。「藤田さん、私が今いい物を考えてますよ、楽しみにしててね・・」それがプロカメラマンの身分証となるペンタックスのIDカードなのだった。

 
 ペンタックスでは、プロデビュー以来、その真価は曖昧だとしても、私は受注やレッスンをしない稀有の写真家として一目置かれた存在になっていた。秋山庄太郎氏に【受注生産しない創作作家】として烙印を押されたことでその作家イメージは固まっていて、天狗になっているという噂は耳に痛かったが、そのままになっていた。
 佐々木さんから紹介される先輩同輩のカメラマン達は、決まって皆「食えていない」人達ばかりで何時もうんざりしていたが、どうやらこの世界にはそんな人しか居ないということが私には判明していた。
 それにしてもなんという世界であることか。時々、時流の好機に乗って馬鹿売れする作家も居るが、ほんの一瞬の恵の雨でしかないのであった。屋久島やオーロラ専門の写真家などがそれで、瞬く間に巷にその種の写真が溢れたり、ブームが去ったりして元に戻ってしまうのだ。
 作家としてのオリジナリティが希薄な以上、それは仕方のない運命かもしれないが、プロとしてのアイデンティティとビジネスを確立するシステムがこの業界に無いままなのが致命的である。 プロとアマの境界線の無い、プロよりも上手いアマが存在する不思議な世界、恵まれた境遇や資産家などしか生きられない、可笑しな世界なのである。 

 
 私には「写真家協会」に入る資格が充分にあり、何時でもそれは可能なのだが、何故かその気が進まないでいた。誰かに強く推薦されたり進められたりしたら、もしかして入っていたかもしれないが、特にそういう事が無くそのままになっていた。
 木原和人が何の協会にも所属しないで独自の世界を作っていた姿に、私は「本物」を見ていたのも確かであるが、入らないままでいいと私は思っていなかった。しかし・・
 もしも、私が入るとしたら「写真家協会とは何なのか」「写真家協会はどうあるべきか」「何を出来るか」「何をするべきか」そんなことを考えて、それを実行、取り組まずには居られない。・・安寧している静かな世界に波紋を起こして、和を乱すそんな人物をこの世界が受け入れる雰囲気なども全くしない。新しい協会などを作るにしても一人では絶対に無理だ。とんでもない苦労が待っているのが目に明らかだ。だがしかし、この山には、はたして人生を捧げる価値があるのかも大いに疑問なのだった。
 それにしても、木原和人が私達と東京で会って、何を語り何をしたかったか・・今となっては分からないのだが、それを思うた度に彼が此処に居ないということが無性に寂しい。彼がこの山で何をして何を思ったか、私には分かる気がした。。
 

  写真展についてペンタックスは規定の告知しかしていないとはいえ、業界に私の名はある程度広まっていたこともあり、どれだけの人がこの個展に来てくれることか、そしてどんな反応、評価が齎されるのか興味深かった。「本物を求めることもなく微温湯に浸かって寝ぼけたような人達が覚醒するほどの物を見せるのだ」・・そんな意気込みが、そのときの私にはあった。
 私は人間関係や人脈の構築には全く無頓着で、これまで何もしていないというのが実際であった。営業を任せる所やレップのような人物もこの世界に居ないのが実際であった。画商も画壇もここには存在していない。やはり、この山はなんという山なのか・・ということだ。私は、それを見届けるためにこの写真展を開いたのだった。
 最初に会ったあの韓国人の新進写真家のような、代理人やエージェントがこの世界に有ったらどれだけ楽か。創作活動にどれだけ専念できただろうか。それを思うと空しいかきりだ。しかし、「はたしてそれは本当だろうか」それを見届ける必要もあった。
 またしかし、肝心なのは・・「私の写真は本物か」、「もしそうだとしたら私の居場所はこの山に有るのだろうか」・・ということだ。

 そして、その答のヒントが、開催日の前に、じつは既に私に齎されていた。

 ペンタックスでプロが個展を開くというのは、やはり大事に違いなかった。最初の時、レセプションを含めて宣伝活動に目に見えるものは何も無かったが、それでも開催中にエージェントやカメラ誌の各社をはじめ色いろな業界人が訪れて、私の名詞入れは満タンになった。そして、写真展の日に合わせてカメラ誌の口絵の掲載も決まっているのだった。それは佐々木さん紹介によるもので、フォトコンテストという老舗の月間誌であった。「頼りないけど自分に出来ることは極力してあげる」というとおりであった。その編集長は個展会場で初対面となり、佐々木さんと共にその席で御礼をしたものだ。聞けば三人とも同学年の同年齢で、何かと大いに話が盛り上がるのであった。私は、この新しい年代の新しい業界人の存在に期待を大いに膨らませたものだ。日本の古い慣習や常識なども私の周りから霧散するのだとさえ思うほどだった。
 それから十年以上が経って、佐々木さんもフォーラムの地位が上がって、将来の所長候補と目されるほどになっていた。そして、そのとき紹介されたのは、アサヒカメラの編集長であった。

「ペンタックスの佐々木さんの紹介なので、なんとか捻じ込んでみますよ」
「有難うございます。よろしくお願いします」

 佐々木さんの紹介は間違いなかったが、少々時間に無理があるようだった。私はその日、個展の代表作の原稿を持参して、予定どおり編集長に掲載を願い出ていた。

「でも、ちょっと日程的に無理があるんだよね。4月号の口絵は先日決まったばかりなもので・・」
「そうですか。それは知りませんでした。捻じ込むってそういうことなんですね。申し訳ありません」
「何とかしますよ。写真展に合わせたいんでしょ?」
「そうですね。そのための紹介だと思っていました。できればそうお願いしたいです」
「何ページご希望ですか?」
「いえ、何ページでもかまいません。二ページは頂きたいとは思うのですが・・」
「四季だから四ページはどうしても要るよね。ちょっときついなぁ・・」
「二ページに押し込めるとか・・」
「いや、この写真をそういう載せ方はしたくはないんですよ」
「どういう意味ですか?」
「いや、何でもない。何か言いましたか?今、私・・」
「そういう載せかたはしたくないとか・・」
「ああ、・・というよりも、ちょつと困った状況があるんですよ、じつは・・」
「どんな事でしょう」
「この月は竹内(敏信)さんの写真掲載が前から決まっておりまして・・」
「そうなんですか。それで何か問題があるのでしょうか?ページの割当ですか?」
「それもあるけど、バッティング的な問題ですよ」
「バッティングですか・・。僕は一向に構いませんよ。むしろ大いに歓迎します」
「ほほう、そうですか。それは面白いかもしれないね・・」
「面白いですよ。竹内さんとの違いが分かって話が速いじゃないですか」
「いや、ちょっと待ってよ。・・速すぎるかもしれないなこれはやっぱり・・」

 彼のその語尾の言葉が急に小さくなって私には聞き取り難かった。

「え?何ですか・・?」
「いえっ。何でもありません。とにかく少し考えさせて下さい。何とかしたいんですがちょっと難しいかもしれません」
「そうなんですか。竹内さんの意向を伺わないといけませにからね・・」
「いえ、それはちょっと・・とにかく・・少し余裕がない・・そういうことです・・すみません」

 編集長との話はそこで終った。そして、その直後に返事があって、掲載は見送りになった。次の掲載はいつになるか分からないと言う。次も次も風景写真が混み合っていて、同様に難しいという事だった。自分はドキュメントが好きだという告白がオマケに付いていた。タイミングを逸したショックもあって、私にはこのカメラ誌に当面、いやもしかしたら生涯載ることは無いと思った。

「そうだったの・・それは残念だっですね。僕の力不足です。力になれなくて申し訳ない」
「そうでもないですよ。竹内敏信さんとバッティングになるのを避けたんだと思います。僕はそれを望んだんですが、ダメだった。竹内さんが嫌ったのか、編集長が嫌ったのか、分からないとこなんだけど・・編集長は一瞬面白いと言ったんですが・・」
「惜しかったねそれは・・確かに面白いと思うよねそれは僕も」
「竹内さんは、カメラ雑誌社にはレッスンプロの達人として欠かせない存在ですから、優先されて当然ですよ。・・だけど僕は対決したかった。正直なところ」
「また次の機会があるでしょ。今回は叶わなかったけど」
「いや、それは無いと思います。竹内さんもカメラ誌も、そんな事は望んでませんよ。僕には分かっちゃいました」
「まあまあ、そんなに熱くならなくても・・」
「すいません。載せてもらえなくてガッカリしたもので・・ちょっと・・」
「ごめんごめん。僕もちょっと売込が遅かったかも・・」

 それは確かに佐々木さんの根回しの準備不足と神通力の弱さに一因があったかもしれない。私はその前に最初の個展の時にお世話になったフォトコンテスト誌と一度口絵に載せて頂いたことのある日本カメラ誌を訪れて掲載の検討を打診しているのであった。アサヒカメラは社風的に何となく違う気もしたりして尋ねていなかった。
 私は佐々木さんにそれを知らせたが「それよりも・・」ということで、あえてアサヒカメラ一本に絞ることにしたのであった。
 二社には事情を説明して丁重に願いを取り下げた。そして、何処にも載らないという結果となった。後で思えば、取り下げることはなかったのかもしれないが、私はそれだけ義理堅い人間なのだった。もしかしたら、高倉健よりもずっと不器用なのかもしれない。それにしても、アサヒカメラの編集長にもその事を説明していて、この結果をどう考えるのか、私には理解し難いものが残った。私は、彼が本物か否か、心の中に疑問符を灯すことになってしまった。

 しかし、問題の核心はそれではなかった。カメラ雑誌社は、どこも読者ありきで、読者の嗜好を何より気にかけている。竹内敏信は風景写真において押しも押されもせぬアマチュア指導の第一人者となっている。そもそも風景写真家としてトップに祭られる彼がしている仕事は、正にレッスンプロのそれでしかなくいのは可笑しなことだ。その点、前田真三が違っていたのは唯一私にとって救いであった。
 そして、カメラ誌の好みはアマチュア受けする写真であった。それは何かと言うと、つまり「アマチュアが撮れそうな優れた写真」ということのようだ。「撮れそうで撮れない写真」それが良いという。「撮れそうもない写真」は望まないらしい。それは、相棒がどこかで聞いてきた編集部の本音に違いなかった。

 カメラ誌は趣味の雑誌に他ならない。その読者は全てアマチュアカメラマンであり、それ以外のカメラの趣味を持たない一般の読者はそこに皆無だ。出版社は読者層をそれに限定し、それ故に、そこにそのような考えが生まれ、それ故に誰もがアマチュアに媚びて御機嫌を覗うことになる。アマチュア様様ということだ。
 プロとアマの違い、誰にも撮れない本物の写真とは何か、アマチュアには目もくれず、只それを追及する私にとってそこに居場所がある筈がない。しかし、それは本当だろうか・・。アマチュアは、本当に「撮れそうな写真」を求め、「プロよりも優れた写真」を撮って喜んでいるのだろうか・・。少なくとも現在の写真誌は皆そう思い、そんな状況を保ち続けて購買意欲を保っているようだ。そして、それはカメラメーカーも同様にちがいなかった。

 私の出身地の名古屋は、アマチュア団体の活動が盛んな所で、とりわけ年季の入ったハイアマチュアの存在感たるや相当なものだ。誌面を飾るプロの写真家を完全に上から目線で捉え「・・さんも最近いいのを撮るようになったなあ」とか言ったりして、口絵の新作を酒の肴にして楽しんでいるのであった。前田真三に対してもそれは同じで、実際にそういう場面に私は遭遇したことがある。山を持つ材木屋の御曹司の恵まれた身分を揶揄する始末だ。
「写真家は道楽者で、写真家協会はその集まりだ」それが彼らの口癖なのである。そして、木原和人になると、彼らにとっては眼中に無く論外なのだった。女・子供に受けているだけの邪道と言い、新しいジャンルなどという考えも全く無い。
 アマチュアが行くことが出来ない極地や秘所にでも行かない限り、彼等に勝つことは出来ないようだ。・・プロよりも優れた写真を撮るアマチュアが日本全国各地に大勢居る。それを知ってアマチュアに誰もが媚び御機嫌をとる。アマチュアはプロを揶揄しながら本音を隠して余裕で崇め奉る。まるで茶番劇である。それがこの業界の現実なのだ。若い時、既に私はそんな状況を把握していて、それを何とかしたかった。そして出来ると思った。私が本物になれたなら。

 そういえば、木原和人は、晩年、レッスンプロを卒業して真の創作作家活動にシフトしようとしていたという。その創作の困難もあっただろうが、そればかりでは決してないのは自明であった。やはり私は、この山で木原和人に会いたかった。
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Author:sagapo5614
写真集「四季の肖像」の作者です。
プロフィルや作品はこちらのHPをご参照ください。http://mfnpf.jp/
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