⑳小椋佳の世界

  「地平線」をかける度に、忘れかけていた若い時の夢が何時も瑞々しくよみがえり、詩のとおり、メロディのとおり、その突き抜けた明るさが曇りがちな私の心の空を訳もなく晴らして、そこに青空があることを思い知らせてくれるのだった。
 青空とはつまり「理想」で、曇り空はそれを否定するように隠す理不尽な「現実」である。若くて青い理想は容易く現実の黒雲に覆い隠されて、時に夢さえも遠ざかる。しかし、その理想を信じる力が強ければ、いくら黒い雲が空に広がろうと、その上に青空があることを忘れることはなく、夢を戻して挫折と絶望が遠ざかる。

 かつて小椋佳の歌に私がどれだけ救われたことか、それは計り知れないが、あまり浸かり過ぎても現実から掛け離れたりして時々困ったことになる。あくまでも青春の応援歌か、もしくは癒し歌として、心の浄化や気分転換に拝聴するのがいいだろう。少なくとも曖昧で軽い時代が続くかぎりは。
 小椋佳の歌が「暗い」という声を周りで聞くことが時にあったが、その度に私はよく反論したものだ。「暗くなんてないよ。逆に明るいと思う。光があればそこには影ができるだろ。解らないかなあ」という感じであった。或るアルバイト先で室内放送に色んな曲を掛けられる事があり、そこではそれぞれが自分の好きな音楽を持って来てテープで流したものだ。私もその機会に自分で編集した曲をたっぷりと流してもらった。そこに小椋佳の世界が広がったのは言うまでもなく、いつしか定番になって、毎日それが流れたものだ。知らない曲ばかりだったようで、それを家に持ち帰る者さえあった。とくに今それを知らない若者が多いとしたら不幸にちがいないだろう。

 しかし、浸かりすぎて現実で想わぬ恥ずかしい目に遭った一例が実はここにある。
 相棒は、私の影響で小椋佳の世界に触れる事が時々あったが、けっして浸り切ることはなく、詩の深い意味が時々いまひとつ理解できない様子でさえあった。撮影行で同乗した車の中で私のカセットから流れる歌にも決して私のように聴き入る事はなく、「いい世界だなー」「深いなー」と言って軽く聞き流している感じであった。個性の違いを尊重し、私は彼に対して無理にその世界の押付けをすることはなく、本人もその車の中だけで充分という事のようだった。「そこに良い世界がある」という認識だけで充分なのだった。しかし・・。

 二人が大学を卒業して写真の武者修行をしている頃、それぞれに意中の女性が出来て、それは確かに二人にとってもう一つの大事な夢に違いなかった。
 相棒は、私と出合う前にY.M.C.Aで失恋を繰り返した挙句、その頃一人の仲間の女性から時々テニスに誘われたりして付き合っていたのだが、彼が言うには「背が高くて男みたいでしっくり来ない」らしく、「本物の相手」ではないということだった。
 それは、「本物」に拘る私の影響にちがいなく「俺も本物を捜すんだ」という意気込みなのだった。そして、「お前はそんな苦労をしなくていいよ」と言う私に「バカにするなっ」と反発する始末であった。
彼の失恋体験は聞くほどに一貫していて、本気で好きになって告白するとその度に付合いが終るのだった。その彼女と続いているのは、唯一「告白していない」ことが理由のようだ。何にしても「告白するまでは手を出さない」というポリシーは見上げたもので、私の影響以前のものだった。
 私は学生時代の大失恋を経て、新たに一人の女性と恋をしていて、彼がその経緯とインスピレーションを目の当たりにしたことで、「あれはお前の本物の相手だよ」「俺もそういう相手を見つけるんだっ」ということだった。
 「今続いてる彼女が本物じゃないのか?」と尋ねても首を振り、どうしても私のような出合をしたいと言うのだ。「彼女の気持はどうなんだ?」と訊いても「単なる友達でしかないよ」ということだった。良い所のお嬢さんで御見合を繰り返しているそうだ。「俺の出番なんて無いし」などと言う。
 その彼女とは続いていても男女の関係は一度も無いというのが信じ切れず、私が問い詰めると、「がたいがゴツくて女を感じないそうく、どうやら本当のようだった。「もしかしたらお前は未だ・・?」「お前はどうなんだ?」という問答の挙句、「本物と出会うまで取って置くのが一番」という結論に至るのであった。耳に入る周りのナンパの自慢話にも不快なだけだった。私もそれは同じで、そんな話を聞く度に自然と足が反対方向を向くのであった。「童貞」という言葉は二人の中で何時の間にか禁句になっていた。
 突き詰めた話、処女や童貞を恥のように賤しめる風潮には二人とも反発していて、「それを誇りにして悪くない時代にこそなるべきだ」ということで合意していた。「本物の恋愛とは・・」という議論を尽くしたものだ。そして、「俺たちには本物の相手を捜す資格がある」という話に落ち着いた。何時まで耐えられるか・・我慢比べなのかもしれなかったが。

 そんな或る日、彼は或る所で一人の可愛い女性を見初めることになり、つまり「本物の相手かもしれない」ということだ。
 彼の好みは私とは逆のポッチャリ系で「女の魅力は尻と胸だッ」と何時も言う。彼も人並みの性欲があるいたって健康な若い男に違いなかった。
 彼が見初めたのは、女子大生らしいマクドナルドの店員で、それは見るからに理想的な彼のタイプに違いなかった。それはちょうどその頃売り出していた宮崎美子をよりボリュームアップしたような可愛い子であった。
 私たちは、何時も一台の車に同乗し、撮影帰りや現像が仕上がってきた作品の品定めの場にその店をよく訪れていて、その出合と相成った。

「こんなインスピレーションは初めてなんだよ。お前ほどじゃないだろうけど・・」
「本当か?・・それはお前の一方通行じゃないのかな?」
「それが、そうじゃないみたいなんだよ」
「本当か・・。それはいいっ。・・それが確かで本当ならな」
「本当・・だ・・と思う」

 それ以来、私たちが暫くその店に入り浸りになったのは言うまでもなく、彼はその子を見るだけで暫く満足なのだった。1階で彼女に注文したり、2階で彼女が来たら追加注文したりと、ただそれだけの接触なのだが、その中で次第にインスピレーションが深まったということだ。
 夏の撮影シーズンでもあって、信州でキャンプをした時などは、夜中中その話が尽きないことにもなった。

「この前の彼女の雰囲気どうだった?」
「・・・?」
「この前、俺が注文した時の彼女の雰囲気。目と目を合わせたつもりなんだけど」
「ああ、わかってるよ。そうやって確かめろと言ったのは俺だからな」
「どうだった・・?」
「お前はよくやってるよ。お前のインスピレーションは伝わったと思う」
「彼女の方は?どう見えた?}
「それは俺に解ることじゃない。お前にしか解らないことだよそれは」
「そうか・・」
「そうだよ」
「俺はいい感じに思えるんだけど・・正直ちょっと自信ないんだ・・」
「そうか・・それは困ったな」
「もっとよく考えてくれよ・・。お前、横に居て見てただろ」
「ああ、見てたよ。それは俺も気にかけてるんだから」
「なあ、どうだった・・?」
「彼女は恥ずかしい感じで、お前の好意にとっくに気付いてるようだな確かに」
「そうか・・。恥ずかしいのか。・・それはどういうことなんだ?」
「それは・・。いい感じといっても良いだろう。・・嫌なら表情でそれが判るから」
「俺の気持がわかって恥ずかしいのか・・つまり嫌じゃないんだな」
「まあそういう事だ」
「やったぜっ。やったぜ。彼女は本物の俺の相手だっ!」
「だといいな・・」

 私の恋愛も一方で同時進行していて、お互いの状況について語り合い、話は何時も尽きないのであった。「あれはどういう意味でどういう事だ?次はどうしたら良い?」などと・・・
 そして、私の事はさて置いて、彼の方が一足先に決着の日を迎えることになった。
 何度かそのマクドナルドに通った挙句、或る日、相棒は彼女へハッキリとした意思表示つまり告白をする決意をするのであった。
 その具体的な作戦はこうである。先ず1階で彼女に何時ものとおりメニューの注文をする。その日は私は居ずにあくまでも一人で行くこと。もちろん彼女のインスピレーションを確かめることは必定である。インスピレーションとはつまり、自分自身の気持が本物かどうか、相手はどうか、だ。そして2階へ上がって彼女が掃除か何かの用事でそこへ来るのを待つ(それまで何度かそんな事があり、何でもないような会話を交わしたりして良い雰囲気になっているのだ)。そして彼女がテーブルに近付いて来るのを待ち、ついに接近してきた時、一対一の対面となる。それで相手が本物だったら、その時に二人の間で何かが自然に始まる・・というものだ。
 彼はその作戦を「完璧だ」と言って賛成したが、万が一2階で話が上手く進まなかった場合に備え、最低限の手段として小さなメモを用意してそれを手渡す事にした。メモには電話番号が記してあって「よろしかったらお友達から・・」とだけ書いてある。彼の軽い性格を損なわない極めてシンプルな手紙であって、かつて時に重すぎて苦労した私の二の舞を踏まない得策であった。そしてそれは少し前に私がやったのと同じ手法で、その切っ掛けの成功を彼は目の当たりにしているのであった。
 しかし、いざとなると、彼は自信を失くし「お前も付いて来てくれよ」と言い「そうじゃないとやらない」と言って聞かない。仕方がないので私は彼に付いて行くことになり、その代わり注文をして上に行くまで一人でやること、それを陰で私が確かめて上手く出来そうだったらそのまま一人で。そうでないなら私に合図で助けを求めて二人で上へ、ということにした。
 私は、何時ものように車を繰り出して彼を決戦の地へと運び、励ましのためにその中で小椋佳のカセットをかけて流すのだった。
それは「恋愛」のテーマを集めて纏めたものだ。「白い一日」「白い浜辺で」などが入っていてそれは純粋で純情な恋の応援歌に違いないのだ。店の駐車場に着いた時、ちょうど「この空の青さは」が歌い終わって、完璧なシチュエーションとなった。「僕はもう逃げない。君が待ってる」・・というあれだ。
 そして、それは見事に功を奏し彼に「これでいいのだ」と勇気を与えたようだった。だがしかし、想ってもいない事がそこで起き、それは彼自身にも想定外なのだった。

 その日、彼は、余ほどの覚悟と準備をして来たようで、前日に床屋に行き髪がサッパリとして、衣服も上下新調し、それこそ「ピカピカに光って」いた。
[昨日、床屋行った?」
「うん」
「・・・」
「なんだよ。何かヘンか?」
「いや・・床屋行ったそうろうだからさ」
「わかる?」
「わかるけど、まあいいんじゃないの」
「どこか変?」
「うーん。ちょっと眉毛が・・」
 元々濃い目の眉毛だが、綺麗に整えられ過ぎていて、正面を向くとまるで眉毛犬のような顔に見え、私は思わず笑うのを苦労して止めた。
「眉毛がとーなってる?」
「いや、誰でも床屋行くと整えられてそうなるよ。キリッとして男らしく見える」
「そうか・・大丈夫だな」
「大丈夫、大丈夫」
 怪訝そうにまた正面を向く彼の真顔を見ると、私は遂に思わず「プーッ」と噴き出してしまった
「・・・」
「いや、お前が何か緊張してるからさ、つい笑っちゃったんだよ。ごめんっ。プワァーハッハッ・・」
「へへへ、ハハハ・・」
「まあ、気合を入れて行こうじゃないかっ。がんばれよっ!」
 そう言って、私は車のエンジンを勢いよくかけた。

 何時ものようにその店頭に彼女は居て、それは遂に実行された。私は少し混み合った客に隠れて陰からその様子を覗った。
 意を決したように、彼は彼女の列に並び、静かにその順番を待っている。近付くにつれてその後ろ姿には緊張感が漲って、それが私にも伝わってきた。「がんばれよ」と思わず心の中で呟いた。
 そしてその順番が来て、二人の目と目が確かに合わさったと思われた時、私は彼の異変に気が付いた。何やら彼の耳の後ろ辺りが異様に赤いのだ。「まさか」と思ったが、横からよく見ると彼の顔は全体的に赤くなっていて、見る見るうちにその赤味が増して行く。そして、それは遂に最高潮に達し、これ以上ない程の赤色になった。「これが赤面というものか」「人の顔はこれほどまでに赤くなるものなのか」・・。全く想定していなかった現実に今目の前で起きているこの異常な事態に対して、私はどうする事も出来ず、ただ呆然と眺めるだけになっていた。
 その異変に最初に気付いたのはやはり彼女のようだ。緊張したように小さな声で決まり文句を発する彼女と、なんとか冷静にオーダーする彼の声は強張っていて、シドロモドロのようである。「本人は自分の赤面に気付いているのだろうか?」彼女の顔を見ると、確かに少し赤らんでいる。それは恥ずかしいというよりは困惑したように見える。横にずれて品物を待つ彼は未だ赤く、その色を保ったままでいる。その異様に客や他の店員も気付いた様子で、それぞれが遠巻きに彼の姿を見て顔を見合わせたりしている。歩ツンとした佇まいのその赤い男は、出来上がってきた品をやっと手にしてこちらを向いた。彼女は奥に下がって姿を隠したようである。私は彼に駆け寄り、肩を叩いて素早く2階へと足を運ばせた。

「俺、顔まだ赤いかな・・」
「ああ、まだチョット・・それにしても驚いたなー。赤面症かよっ」
 私は、いたって明るく振舞い笑って済まそうと考えた。
「俺も自分で驚いたよ。どーしよー」
「それにしても凄い赤色だったわ。火のようなとはこの事なんだな。ハハハッ」
「笑うなよ・・」
「これを笑わずして何を笑えと言うっ。まるで寅次郎だな、あれは。男はつらいよ、だ」
「みっともないよな・・」
「寅次郎ってみっともないか?そうじゃないと思うんだけどな、俺は」
「やっぱり寅次郎か、俺は・・。振られたな、これは・・」
「さあ、どうだろう・・未だわからんぞ」
「どういうことだ・・?」
 私は、その時の彼女の表情や様子を脳裏で何度もプレイバックして、盛んに考えをめぐらせていた。彼女が彼の異変に気付いてどう感じ、何を思ったか・・。「恥ずかしい」「困った」「どうしよう」・・そんな様子が確かに見て取れたのであるが、その真意がいまひとつ解らない。これは、勘違い男の片思いであって、そんな男の醜態を見て迷惑なのか・・。それとも、男の純情が解って嬉しくて恥ずかしいのか・・。第三者の私には、どうしてもその判別がし切れないのだ。しかし、後者の希望的観測としての楽観論を捨てきれないのも事実であった。
「これでお前の気持は彼女に伝わったということだ。ある意味、成功・・だ」
「伝わりすぎだろ・・」
「いや、最高の伝わり方だと思うぞ、俺は」
「そうかな・・?」
「そうだとも。お前の真実があそこには出ていて、それを知った彼女がどう思ったか・・。彼女が本物の相手だったら、これで始まる。・・つまり最高のシチュエーションが整ったということだ」
「そうかなあ・・?」
「そうだとも。素晴らしい自然の成り行きじゃないか」
「これで終ったら・・彼女は本物の相手じゃないという事か・・」
「ああ。そうなるな」
「そうなる気がする」
「ほう。お前にはそれがわかるのか。・・だったら終わりだ。それならそれで話が速くて良かったじゃないか」
「ああ。終り終わり。終った終ったっ。もういいよっ」
 はたして彼女は本当に彼の本物の相手ではなかったのだろうか・・。そういう事で終了するのに私は少し抵抗を禁じえなかった。
「まあ、ちょっと待てよ。そんなに急ぐな」
「どうだってんだ・・?」
「少し様子を見てみよう。もしかしたら本当にこれが始まりかもしれないんだぞ」
「彼女が上に上がって来るとか?」
「それは無いな。今日は無理だよ。お互いに頭を冷やして考えるのが良いかもしれん」
「そうだな、そうだなっ」
「そうと決まったら早いとこ此処から退散しよう。日を改めてまた来よう」
「それがいい、それがいい」
 私たちはそう決めて、何食わぬ顔をしてく素早く下に降り、店を出た。彼女や店の様子を見る事もなく、それはもう一目散という様相だった。
 車に戻ると私たちは揃ってそれは大きな溜息を吐いた。
「あーあ、まいったな、それにしても今日は」
「お前が眉毛がヘンだとかいうからだぞっ。チョーシ狂っちゃったんだよっ」
「ごめんごめん。わるかった」
「それにしても、お前があんな赤面症だとは知らなかったよ。まったくもって。今まであんな事なかったのにな」
「あっ・・。そうだっ。お前が小椋佳の歌を聴かせたからだよ。・・そんで俺、ヘンになっちゃった」
「そうか。もしかしたらそうかもな・・」
「そうだ。そうだよ。お前があんなふうに盛り上げるからだ・・」
「そうかなあ・・。俺は盛り上がった方が調子出るんだけどなあ・・。おかしいな」
「俺とお前は違うんだよ。お前ほど強くないんだよ俺は・・たぶん。元々小椋佳はお前の世界だし」
「小椋佳の世界は、弱いように見えて、その実は凄く強いものなんだからな」
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