スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

④光の絵

 「写真は光で描く絵だ」「レンズが絵筆で、光は絵の具」
 これは、木原和人が当時写真雑誌で毎月誌上フォトセミナーを連載していて、その日、最初のページに大きな文字で派手に掲げた、彼の爽やかなメッセージである。

 そして、その記事を見た私と相棒は、それはもう激しい衝撃に襲われたのだった。私も「これは・・」と言った後、思わず絶句したのを今も鮮明に覚えている。

「おいっ、今日出た木原の写真と記事、見たか」
「ああ、見たよ。ショックだな・・」

 ジュニア向けのこのカメラ雑誌では、創刊当時から「ネイチャーフォト」というジャンルが立ち上げられていて、それが読者に人気を博し、木原和人は、その講師に起用されていた。いわゆる「キレイキレイ写真」の第一人者が彼なのである。
 比較的安価なマクロレンズの普及もあって、身近な花などの自然が被写体なので、初心者が入り易く、ジュニアや女性のシニアの大勢が彼のファンになっていた。

 それは、カメラの絞り値を開放にして、花や昆虫にピントを合わせると、手前や背景が大きくボケて、デフォルメのように写るというマクロレンズの特性を生かしたものであり、誰もが直ぐにその綺麗な自然写真を撮ることができる。
 彼の写真を初めて見て、「綺麗だなあ」と思い、マクロレンズを購入し、公園や近くの野山に出かければ、その日に大量の木原調の自然写真が出来上がる。もちろんピント合わせや構図取りの難しさはあり、絵心的なセンスも必要だが、そこそこの作品が容易に出来上がる。

 そして、私と相棒もその例外ではなく、彼の写真に初めて触れたのはその雑誌に違いない。しかし、私たちは、その前から既にマクロレンズは持っていて、その特徴は熟知していた。
 私たちが自然写真の魅力に取り憑かれたキッカケは、じつは木原和人の写真ではなく、彼がカメラ雑誌に登場する少し前に出版された、或る写真集であった。
 それは「光の五線譜」という、百ページほどの軽い装丁の写真集で、身近な花や植物、昆虫の接写や、野鳥を、生態写真ではない綺麗な写真で四季に沿って纏め上げたものである。串田孫一という詩人の詩文がそれぞれの写真に合わせて載せてあり、フォトエッセイの形になっている。
 木原和人のようなボケ味を強調した写真は少ないが、それでも接写になると自ずとボケ味は出るもので、自然の美しさと同時に、その写真の新鮮な視線と世界観に私は心を奪われたのであった。

 私は、学生時代、相棒に出会う前にこの写真集に会っていて、マクロレンズなるものの存在もそこで知り、自然写真を撮るようになったのである。それには、全ての作品の撮影データ(カメラ・レンズ・絞り値・シャッター速度)が丁寧に記されていて、大いに参考になった。撮影者も紹介されていて、私が興味を持ったのは、栗林慧という写真家であった。彼の撮った昆虫や植物の接写写真が事のほか綺麗で、小さな自然のフォルムを精密に捉えていて概ね「絵」になっていた。
 私は、それ以前は前田真三の風景写真に心酔していて、それが自然写真を撮る契機になったのであるが、その作品集の中には花をアップで捕えたものもあり、考えてみれば、そもそも、風景写真自体が自然を捕えたものなので、それは、花や、樹木や、植物が被写体なのである。
 しかし、風景写真となると、それなりの場所へ出かけないと、どうしても思う写真を撮ることが出来ず、経済的に限界があることからも、私は、身近な自然を捕えたこの写真集の世界に心を魅かれて行くのであった。そして、その自然写真に秘められた可能性について、大いなる夢を描くのだった。
 私が最初に手にしたその写真集は「光の五線譜・2」だったので、すぐさま「1」を取り寄せたことは言うまでもい。
 それは「2」と全く同じコンセプトで、私は更にその世界にのめり込むことになる。その世界というのは、じつは既に「五線譜調」という形容で写真界には認知されていたようだが、とにかく私はその小さな世界の虜になって、暇さえあれば野へ山へと出掛けるようになった。
  当時、私の鞄の中には、何時も常にその写真集が入っていて、たとえ見なくても肌身離さず、まるでそれを何かの御守りにするかのように持ち歩いていたものだ。そのうち表紙や角が磨り減ってそれはボロボロになった。そして、相棒がそれを見て、いつしか彼も興味を持ち始め、私への追随が始まるのであった。

------------------------------------------------------------

「なんだよその服」
「え?・・どうかした?・・なんかへんか?」

 近くの公園で基本をレクチャーした後、相棒が初めて私の撮影に同行した時の事、彼は私が何時も着ているジャケットを真似て近くの商店街でそれに似たものを買ってやる気満々でやって来たのだ。

「なんか医者か保健所の職員みたいだな。白すぎてなんか眩しいし」
「そうかなあ・・」
「それだけの問題でもない。デザイン的にどうなんだそれ」
「おかしいかな?バッチリだと思ったんだけどなあ・・」
「いったいどこで買ったんだよ」
「家の近くの商店街。お袋の馴染みの店なんだよ。買ってもらったんだから仕方ない」
「お前は何でもお袋なんだな。そういえば、カメラとレンズをを包んでる布袋も作ってもらったんだっけな。紫色のビロードの。あれもなんかどうかと思うぞ。それは確かに貴重品だけど・・。親心がこもりすぎだよ」

 その服には、目立つポケットがあちこちに多数付いていて確かに機能のなようだが、それにしてもデザインがどうかしている。胸のところに英語のロゴが刺繍で施されていて、なんと「SimpleLife」とある。刺繍が荒いし糸の色がおかしな緑色をしている。バッタモンも甚だしい。それにしても白い。白すぎる。
  私の着ているジャケットは、カメラマン用のそれではなく、いわゆるサファリジャケットの一種で、「SimpleLife」という当時人気のレナウンのブランドであった。ちょっとない、モスグリーンが少し混じったような薄灰色の白で、形は飾り気がな、軽くて文字通りシンプルなものである。普段から私はそれが大変気に入っていて、大学時代から春や秋にはそれを羽織って何処へでも出掛けていたものだ。
 そういえば、当初から、彼は時々ちょっとおかしな服装を時々してきて、よく周りに「なんだそれ」と言われていたものだ。その出元が同じ商店街の洋品店であったのは言うまでもなく、「LACOSTE」のワニのロゴなどもそれは可笑しなものだった。
 
「バッチリだと思ったんだけどなー」
「ぜんぜんバッチリじゃないよ。よくそんなの有ったもんだな」
「まあ、そう言うな。これでいいよ。安かったからいいんだよ」
「お前も本物志向じゃなかったのかよ」
「俺は日本のレッテル主義に抵抗してるのさ」
「・・・?」

 それにしても、その白は本当に眩しくて、私がスミレの花を接写をしていると、彼が横に密着して来るので、「露出がおかしくなるから近寄るな」と言うほどだった。
 見よう見まねとは、正にこの事で、行く所行く所にピッタリと着いて来て、私が撮っている花を横から同じように狙って撮るので、「他にも咲いてるだろ」と言うと、「それが一番いいんだよ」と言って譲らない頑固な一面もあるのであった。
 そして、慣れてくると、私の先を越して、一番いい個体を目敏く見つけるという、チャッカリとした一面も見せるのであった。
 
「とにかく、少し離れてくれないか。俺はこっちの方へ行くから、お前はあっちの方の道へ行ってみろよ。遊歩道が幾つもあるけどみんな繋がってるから。時間を決めてまた此処で落ち合おう」
「迷子になったらどうすんだよ。お前は何度も来てるから心配ないんだろうけど・・」
「分かったよ。だけどあんまり近付くなよ。調子くるうからさ」
「分かった分かった」

 そう言いながら、直ぐに近付いて来て、直ぐ横の違う固体を、腹這いになったり、同じ格好をして撮影をする彼なのだった。構図を決めたファインダーを見てくれと言うので覗いてみると、そこには確かに私と違った個性があるので、それを尊重するようにして、技術的な務アドバイスに留めるよう心掛けていた。

「俺にはない軽さが有っていいんじゃないかな。とにかく絵になるようにしような」
「そうだ。軽さは俺の真骨頂だから、それで行く。水平線が傾いてる浅井慎平の写真も好きだからな俺は」
「木原和人じゃなかったのかよ」
「俺のイメージはそれよりも進んでるから」
「それは頼もしい。その意気込みは奨励するよ」
「このやろう、上から言うな」
「いやいや、このとおり、横から言ってるんだけどな」

 プロの自然写真家を同じように夢見た二人にとって、デビュー競争のスタートを切る少し前、大学を卒業したばかり、就職浪人の年、東海のミニ尾瀬といわれる葦毛湿原というフィールドでの、四月の或る日。
 それは夢の頂の山の麓にある野原での、長閑な春の一日の一コマであった。 

------------------------------------------------------------
  
「おいっ、今日出た木原の写真と記事、見たか」
「ああ、見たよ。ショックだな・・」

これには続く言葉があって、そのショックが、どの様なものなのかということである。

「木原のやつめ、やりやがったな」
「ああ、そういうことだな。ちょっと許せんかもな・・」
「あの野郎、とんでもないインチキ野郎だな」

 その日、彼は、写真誌の木原和人のコーナーの大きな見出しの「写真は光で描く絵だ」「レンズが・・」という文言を見て驚いて、直ぐに私に電話をしてきたのだった。

「あれは、この前、木原に会ったとき、お前が木原に話した言葉そのまんまだよな」
「一字一句そのまんまだ。説明してる事もそのまんまだな」
「それにしても、カッコよく大きく出したもんだよ、なあ」

 そのコーナーは、毎月彼が連載している誌上フォトセミナーで、本人の新作を発表することも兼ねており、それを見るのが楽しみの二人だったが、この時ばかりは驚いたのだった。カメラをカッコよく構えて何かを狙うポートレート写真の上に、大きく記されるその決め文句。「光の魔術師・木原和人」という言葉も加わって、なんともかっこいい。
 彼は、そのとき三十代で、新進気鋭の自然写真家として、メーカーと雑誌社がタイアップして、大いに売り出していた。アマチュアの間でマクロ写真の「ネイチャーフォト」が流行し、彼がその立役者になってノリノリの状態だった。カメラ雑誌社には多数のファンレターが来たりしてその売上に大いに貢献していたようだ。

 特別に格好をつけたり気取ったりしているわけではいが、元々容姿端麗な彼は、ランドクルーザーを乗り回して自然の中を飛び回る姿が颯爽としていて、憧れる中年女性も少なくなかったようだ。「木原さんの写真を見て私もネイチャーフォトを始めました」「撮影会で見た貴方がカッコよくてファンになりました」などという投稿文が掲載されたりもしていて、カメラファンの中で、世に「ネイチャーフォト」ブームを確かに巻き起こしていた。各カメラ誌の口絵にもよく載った。彼は、出始めの頃に比べると、次第に垢抜けてきて、まるで芸能人のような雰囲気さえ醸し出していた。

 私たちは、そんな彼の方向性に疑問を感じるようになり、その頃には次第に彼の作品に飽きて来て、毎月発表される新作の出来に不満を呈するようになっていた。実際、アマチュアが撮る同様の写真にも、彼を凌駕する作品が数多く見られるようになっていて、「追いつけ追い越せ」と日々切磋琢磨の私たちも、当然の如くそうなっているのであった。
 私は最初から彼の作品や活動には不満足だったので、期待をしていないぶん相棒ほどの意識はなかったのだが、彼は、目標を木原和人にターゲットを絞っていて「あんな写真を撮りたい」「あんな活躍をしたい」という至極単純明快な動機があったので、その一挙手一動足に何時も注目しているのであった。

 私が木原和人と会って、その話をしたのは本当で、それは、彼が名古屋の或るギャラリーで持ち回りの写真展を開いた時に、来場していた本人に「ファンです」と言って近付いて、話をさせてもらった時のことである。
 出たばかりの写真集「光と風の季節」を購入していて、それにサインをしてもらったのであった。日付が記されていて、今ではいい記念になっている。その時の会話が、それを見るたびに蘇えってくる。1984年10月15日のことである。
 彼は、時間を惜しまず熱心に話を聞いてくれて、私の語る写真論に頷いてくれて、「君たちはプロになりたいのかな?」と訊ねられたものだ。「君たち」・・つまり、その時も私の横には相棒が居て、木原和人の前には二人が並んでいるのであった。
 しかし、私は、彼については、写真よりもその人物像に興味があって、特別の質問をした。

「木原さんは、写真家協会に入らなかったり、NPSを飛び出したりしてますが、僕はそんな木原さんに凄く興味を引かれるんです。なんか尊敬しちゃうんですが、おかしいですかね・・」
 そう言うと、彼のにこやかだった表情が真顔に変わった
「彼らは甘いんだよ。やってることがいちいちすべて。馬が合わないの。だから俺には敵が多いのも事実だね。だから、あんまり良いお手本でもないと思うよ」
 一匹狼でアウトローのイメージを何処か彼に抱いていた私は、驚いて嬉しくなった。
「だけど、こうやって写真集が出たり、写真展を開いたり。雑誌で活躍してるじゃないですか」
「俺には敵が多いけど、そりゃあ、気の合う味方も居るっていうことさ。君たちがもし将来プロになったら、その時は力になるから頼りにしてくれ。こう見えても、この世界じゃ、俺にも政治力ってものが少しはあるんだから。・・東京に来た時は知らせてくれよ」
 私は更に嬉しくなってその話を突っ込んだ。
「そういえば、木原さんの名刺には『自然写真家』ってあるだけで、写真家協会には本当に入ってないんですか?」
「ああ、本当さ。べつに写真家協会なんて入らなくていいさ。どうせ皆それを名刺の肩書にしてハクを付けたいだけなんだから」

 彼の言葉には飾り気がなく、表情の真剣さからも、それが嘘偽りではないことが窺えた。この人は本当に純粋で正直な人なんだと思い「本物」の片鱗を見るようだった。
 すると、思わぬ話の展開に、黙って聞いていた相棒が唐突に実直な質問を投げかけた。

「僕は木原さんの写真に憧れて木原さんのようなプロになりたいんです。どうすればプロになれるんでしょうかっ?」

 それは私も訊きたいことであったので、大いに助かった。
 そして真正直な質問には真正直な答えが返ってきた。

「先ずはとにかくいい写真を撮ることだよ。いい写真を撮ってれば、必ず誰かの目に止まって、認められるものだから」
「未だ未だですが、もう少しというところまで来てるような気もします。コンテストに出しまくるということですかね」
「アマチュアコンテストはプロの登竜門じゃあないから、腕だめしくらいにしておこう。遠回りだし。写真展を開くんだよ。東京の一流の所で。メーカーとかのがいいな。とにかく写真さえよければプロになれるよ。それを信じて頑張ることだな」
「ハイッ、頑張りますッ!」
 私を差し置き相棒が背筋を伸ばして大きな声で返事した。そして私も負けていなかった。
「僕は写真に完成度を求めて頑張ってるんです。オリジナリティの追及なんです。木原さんはどうなんですか?」
「もちろん僕もそれは何時も求めているさ。それを求めずに何が写真家だ。みんな甘いんだってば」

 実はその二年前、私は名古屋のハイドカラー・ギャラリーという所で初めての自然写真の個展を開催していて、その時も彼が写真展と共に同じ所に来場していて、その案内状を彼に会って手渡したのだった。そしてその時に買って持っていた「接写のフルコース」という彼の新書にサインをしてもらっていた。1982年5月1日のことである。その時、そこで彼の公演があったのだが、彼はここの常連アマチュア達からは未だ認知されていなかったようで、質問タイムに大いにからかわれたりしていたことを私は覚えているが、名古屋のハイアマチュアは気位が高いことで有名のようだ。しかし、その二年後に木原は随分出世して、そのアマチュア達はすっかり静かになっていて、権威に弱い名古屋人気質に閉口する私であった。
 その時も横には相棒が居て、一緒にサインしてもらったりして喜んでいた。その際には、二人とも会っただけで胸が一杯でサイン会の時に「頑張ってください」というのが精一杯だった。そして、ギャラリーの玄関先に横付けしてある彼の愛車「ランドクルーザー」を見て大いに憧れたものである。後ろの荷台にはカメラ機材がぎっしりと詰っており、白いマーガレットの花の束が積んであった。信州の高原で摘んだものだろう。緑色のボディにくっきりと印字された「自然写真家・木原和人」という白いロゴが眩しかった。

 その時の私の写真展の題名は「光のくにの詩」で、花と昆虫の世界を綺麗な別世界として描いたものだった。その表の写真は、いみじくも木原和人の写真に似ていて、緑と青空をぼかした背景に、薊の赤い花の上にジョウカイボンというカミキリムシがこちらを向いて止まっている写真であった。しかし彼はやはり来ることは遂になかった。当然のことである。
 そして二年後、私は代表作のポジフィルムを用意していて、それを見てもらうことにした。その頃の私は既に645の中版カメラに切替えていて、ルーペで拡大しなくても、作品の出来がよく分かる。

「先生の作風とは少し違いますが、先生の作品を見て、自然写真の絵としての可能性を確信したんです」

 彼は、一枚一枚手にとって、天井の照明に透かして、ゆっくりとそれを見てくれた。そして真面目な顔をしてこう言った。
「君はもう充分にプロになれる実力があるよ。東京で個展を開くんだ。敷居が高いかもしれないけれどね」
「じつは今のこれでは、それは未だ早いと思ってるんです。もうすぐ完成しますから、それまで待ってて下さい」
「分かった。楽しみにしてるよ」
「僕も、もう少しです。彼よりもチョット遅れていますが」
「君たちは何時も二人で居るの?羨ましいなあ・・。君たちと東京で一緒に何かやりたいな。なんか楽しくなってきた」
「楽しみにしていて下さい。もうすぐだと思いますから」
「僕も同じです。楽しみにしていてくださいッ!」

 これはもちろん後で分かった事なのだが、その頃の彼は、写真誌の第一線で活躍しながらも、シニアを中心といた、主に「風景写真」を撮るハイアマチュアの間では不評を買っていて、門外漢的な存在扱いになてたようだ。プロの間でもそれは同様で、紙面で有頂天になっている様な彼を見下している大御所も多く居て、孤軍奮闘といったところだ。
 そんなことを考えると、その時に彼が私たちに言ったことが、本心だったのだろうと、今になって改めて思う。

 しかし、それにしても、あの記事には、やはり驚かされたものだ。
 それは、彼とそんな会話をしてから二ヶ月ほど経った掲載であった。

「写真には、絵としての価値があるはずなんです。言ってみれば、写真は、光で描く絵なんですよ。絵画の絵筆は写真のカメラとレンズなんです。それで、絵の具は光なんです。だから、絵としての価値を追求するべきなんです。人間の芸術としての表現媒体が進化して、今は写真が最先端ということなんです。だから、そういう視点で写真の価値を見直すべきだと思うんです」
「そのとおりだよ。君の言ってることは僕にもよく分かるよ。だから頑張ってるんだ」
「頑張って下さい。木原さんには、もっともっと頑張ってもらいたいんです」
 彼は、その言葉に私が込めた皮肉を感じた取ったかどうか分からなかったが、黙って神妙に頷いた。
「君たち、頑張れよっ!」
「木原さんもっ!」
 相棒が私をさて置いて大きな声でそう言った。
「サンキューッ!」

 そう言って立ち去る彼は颯爽としていて、何やらい勇ましい武士のように見えた。
 第一線で戦いの真っ最中の彼の存在感は確かなもので、私たちには及びもつかない、それは輝くような存在感だった。
 そんな彼に会って、話ができて、私たちの夢が一気に現実味を増したのは言うまでもないことである。

 そして、誌面を見たその日から、相棒の中で変化が起きた。
 木原和人に「追いつけ、追い越せ」が、その日を界に「打倒木原和人」になった。

 私は、というと、そのような気は特に無なく、何故ならば、最初から私が見ているのは、木原和人ではなく、彼が見ている方向の、そのもっと先にあるもだからであって、それは写真の価値に関わり実に奥が深く、実に困難だろうものであるからに違いない。しかし、私にはその時その先に確かな光の点が見えていて、それが日毎に大きく近付いて来るのがしっかりと見えていた。
 そして、それは、前田真三とその写真についても、まったく同じことなのだった。

 木原和人には、あの時、先に言われてしまったのだが、反面、私は少し嬉しい気持が有ったのも事実で、それは、後に続けて言うべき事がじつは未だ有って、それを胸に留めていたからに違いない。それは、「同じ絵でも、上手いか下手か、いい絵か否か、それが肝心」というものである。
「いい絵とは何か」と同様の意味で「いい写真とは何か」それを追求したかったのだ。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
最新記事
プロフィール

sagapo5614

Author:sagapo5614
写真集「四季の肖像」の作者です。
プロフィルや作品はこちらのHPをご参照ください。http://mfnpf.jp/
下記リンク【四季の肖像】からどうぞ

リンク
月別アーカイブ
最新コメント
フリーエリア
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
RSSリンクの表示
FC2カウンター
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。